見ねばさすがに見まほしく思ひながら、面《おもて》を合すれば冷汗《ひやあせ》も出づべき恐怖《おそれ》を生ずるなり。彼の情有《なさけあ》る言《ことば》を聞けば、身をも斫《き》らるるやうに覚ゆるなり。宮は彼の優き心根《こころね》を見ることを恐れたり。宮が心地|勝《すぐ》れずなりてより、彼に対する貫一の優しさはその平生《へいぜい》に一層を加へたれば、彼は死を覓《もと》むれども得ず、生を求むれども得ざらんやうに、悩乱してほとほとその堪《た》ふべからざる限に至りぬ。
 遂《つひ》に彼はこの苦《くるしみ》を両親に訴へしにやあらん、一日《あるひ》母と娘とは遽《にはか》に身支度して、忙々《いそがはし》く車に乗りて出でぬ。彼等は小《ちひさ》からぬ一個《ひとつ》の旅鞄《たびかばん》を携へたり。
 大風《おほかぜ》の凪《な》ぎたる迹《あと》に孤屋《ひとつや》の立てるが如く、侘《わび》しげに留守せる主《あるじ》の隆三は独《ひと》り碁盤に向ひて碁経《きけい》を披《ひら》きゐたり。齢《よはひ》はなほ六十に遠けれど、頭《かしら》は夥《おびただし》き白髪《しらが》にて、長く生ひたる髯《ひげ》なども六分は白く、容《かたち》は痩《や》せたれど未《いま》だ老の衰《おとろへ》も見えず、眉目温厚《びもくおんこう》にして頗《すこぶ》る古井《こせい》波無きの風あり。
 やがて帰来《かへりき》にける貫一は二人の在らざるを怪みて主《あるじ》に訊《たづ》ねぬ。彼は徐《しづか》に長き髯を撫《な》でて片笑みつつ、
「二人はの、今朝新聞を見ると急に思着いて、熱海へ出掛けたよ。何でも昨日《きのふ》医者が湯治が良いと言うて切《しきり》に勧めたらしいのだ。いや、もう急の思着《おもひつき》で、脚下《あしもと》から鳥の起《た》つやうな騒をして、十二時三十分の※[#「※」は「さんずい+氣」、39−15]車《きしや》で。ああ、独《ひとり》で寂いところ、まあ茶でも淹《い》れやう」
 貫一は有る可からざる事のやうに疑へり。
「はあ、それは。何だか夢のやうですな」
「はあ、私《わし》もそんな塩梅《あんばい》で」
「然《しか》し、湯治は良いでございませう。幾日《いくか》ほど逗留《とうりゆう》のお心算《つもり》で?」
「まあどんなだか四五日と云ふので、些《ほん》の着のままで出掛けたのだが、なあに直《ぢき》に飽きて了《しま》うて、四五日も居られるもの
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