まし》く背《そむ》けてゐたり。
「さあ、無いのか、有るのかよ」
 肩に懸けたる手をば放さで連《しきり》に揺《ゆすら》るるを、宮は銕《くろがね》の槌《つち》もて撃懲《うちこら》さるるやうに覚えて、安き心もあらず。冷《ひややか》なる汗は又|一時《ひとしきり》流出《ながれい》でぬ。
「これは怪《け》しからん!」
 宮は危《あやぶ》みつつ彼の顔色を候《うかが》ひぬ。常の如く戯るるなるべし。その面《おもて》は和《やはら》ぎて一点の怒気だにあらず、寧《むし》ろ唇頭《くちもと》には笑を包めるなり。
「僕などは一件《ひとつ》大きな大きな楽があるので、世の中が愉快で愉快で耐《たま》らんの。一日が経《た》つて行くのが惜くて惜くてね。僕は世の中がつまらない為にその楽を拵《こしら》へたのではなくて、その楽の為にこの世の中に活きてゐるのだ。若《も》しこの世の中からその楽を取去つたら、世の中は無い! 貫一といふ者も無い! 僕はその楽と生死《しようし》を倶《とも》にするのだ。宮《みい》さん、可羨《うらやまし》いだらう」
 宮は忽《たちま》ち全身の血の氷れるばかりの寒さに堪《た》へかねて打顫《うちふる》ひしが、この心の中を覚《さと》られじと思へば、弱る力を励して、
「可羨《うらやまし》いわ」

「可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげやう」
「何卒《どうぞ》」
「ええ悉皆《みんな》遣《や》つて了《しま》へ!」
 彼は外套《オバコオト》の衣兜《かくし》より一袋のボンボンを取出《とりいだ》して火燵《こたつ》の上に置けば、余力《はずみ》に袋の口は弛《ゆる》みて、紅白の玉は珊々《さらさら》と乱出《みだれい》でぬ。こは宮の最も好める菓子なり。

     第 六 章

 その翌々日なりき、宮は貫一に勧められて行きて医の診察を受けしに、胃病なりとて一瓶《いちびん》の水薬《すいやく》を与へられぬ。貫一は信《まこと》に胃病なるべしと思へり。患者は必ずさる事あらじと思ひつつもその薬を服したり。懊悩《おうのう》として憂《うき》に堪《た》へざらんやうなる彼の容体《ようたい》に幾許《いくばく》の変も見えざりけれど、その心に水と火の如きものありて相剋《あひこく》する苦痛は、益《ますます》募りて止《やま》ざるなり。
 貫一は彼の憎からぬ人ならずや。怪《あやし》むべし、彼はこの日頃さしも憎からぬ人を見ることを懼《おそ》れぬ。
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