ふか解らないのね。かうしてゐれば、可楽《たのしみ》な事もある代《かはり》に辛《つら》い事や、悲い事や、苦《くるし》い事なんぞが有つて、二つ好い事は無し、考れば考るほど私は世の中が心細いわ。不図《ふつと》さう思出《おもひだ》したら、毎日そんな事ばかり考へて、可厭《いや》な心地《こころもち》になつて、自分でもどうか為《し》たのかしらんと思ふけれど、私病気のやうに見えて?」
 目を閉ぢて聴《きき》ゐし貫一は徐《しづか》に※[#「※」は「目+匡」、36−5]《まぶた》を開くとともに眉《まゆ》を顰《ひそ》めて、
「それは病気だ!」
 宮は打萎《うちしを》れて頭《かしら》を垂れぬ。
「然《しか》し心配する事は無いさ。気に為ては可かんよ。可いかい」
「ええ、心配しはしません」
 異《あやし》く沈みたるその声の寂しさを、如何《いか》に貫一は聴きたりしぞ。
「それは病気の所為《せゐ》だ、脳でも不良《わるい》のだよ。そんな事を考へた日には、一日だつて笑つて暮せる日は有りはしない。固《もと》より世の中と云ふものはさう面白い義《わけ》のものぢやないので、又人の身の上ほど解らないものは無い。それはそれに違無いのだけれど、衆《みんな》が皆《みんな》そんな了簡《りようけん》を起して御覧な、世界中御寺ばかりになつて了《しま》ふ。儚《はかな》いのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中で切《せめ》ては楽《たのしみ》を求めやうとして、究竟《つまり》我々が働いてゐるのだ。考へて鬱《ふさ》いだところで、つまらない世の中に儚い人間と生れて来た以上は、どうも今更為方が無いぢやないか。だから、つまらない世の中を幾分《いくら》か面白く暮さうと考へるより外は無いのさ。面白く暮すには、何か楽《たのしみ》が無ければならない。一事《ひとつ》かうと云ふ楽があつたら決して世の中はつまらんものではないよ。宮《みい》さんはそれでは楽と云ふものが無いのだね。この楽があればこそ生きてゐると思ふ程の楽は無いのだね」
 宮は美き目を挙げて、求むるところあるが如く偸《ひそか》に男の顔を見たり。
「きつと無いのだね」
 彼は笑《ゑみ》を含みぬ。されども苦しげに見えたり。
「無い?」
 宮の肩頭《かたさき》を捉《と》りて貫一は此方《こなた》に引向けんとすれば、為《な》すままに彼は緩《ゆる》く身を廻《めぐら》したれど、顔のみは可羞《はぢが
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