の眼色《まなざし》は漸《やうや》く鋭く、かつは疑ひかつは怪むらんやうに、忍びては矚《まも》りつつ便無《びんな》げに佇《たたず》みけるに、いでや長居は無益《むやく》とばかり、彼は蹌踉《よろよろ》と踏出《ふみいだ》せり。
 婦人はとにもかくにも遣過《やりすご》せしが、又何とか思直《おもひなほ》しけん、遽《にはか》に追行きて呼止めたり。頭《かしら》を捻向《ねぢむ》けたる酔客は※[#「※」は「目+毛」、291−16]《くも》れる眼《まなこ》を屹《き》と見据ゑて、自《われ》か他《ひと》かと訝《いぶか》しさに言《ことば》も出《いだ》さず。
「もしお人違《ひとちがひ》でございましたら御免あそばしまして。貴方《あなた》は、あの、もしや荒尾さんではゐらつしやいませんですか」
「は?」彼は覚えず身を回《かへ》して、丁《ちよう》と立てたる鉄鞭に仗《よ》り、こは是《これ》白日の夢か、空華《くうげ》の形か、正体見んと為れど、酔眼の空《むなし》く張るのみにて、益《ますま》す霽《は》れざるは疑《うたがひ》なり。
「荒尾さんでゐらつしやいましたか!」
「はあ? 荒尾です、私《わたくし》荒尾です」
「あの間《はざま》貫一を御承知の?」
「おお、間貫一、旧友でした」
「私《わたくし》は鴫沢《しぎさわ》の宮でございます」
「何、鴫沢……鴫沢の……宮と有仰《おつしや》る……?」
「はい、間の居りました宅の鴫沢」
「おお、宮さん!」
 奇遇に驚かされたる彼の酔《ゑひ》は頓《とみ》に半《なかば》は消えて、せめて昔の俤《おもかげ》を認むるや、とその人を打眺《うちなが》むるより外はあらず。
「お久しぶりで御座いました」
 宮は懽《よろこ》び勇みて犇《ひし》と寄りぬ。
 今は美《うつくし》き俥《くるま》の主ならず、路傍の酔客ならず名宣合《なのりあ》へるかれとこれとの思は如何《いかに》。間貫一が鴫沢の家に在りし日は、彼の兄の如く友として善かりし人、彼の身の如く契りて怜《いとし》かりし人にあらずや。その日の彼等は又|同胞《はらから》にも得べからざる親《したしみ》を以《も》て、膝《ひざ》をも交《まじ》へ心をも語りしにあらずや。その日の彼等は多少の転変を覚悟せし一生の中に、今日の奇遇を算《かぞ》へざりしなり。よしさりとも、一《ひと》たび同胞《はらから》と睦合《むつみあ》へりし身の、弊衣《へいい》を飄《ひるがへ》して道に酔《
前へ 次へ
全354ページ中215ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング