ゑ》ひ、流車を駆りて富に驕《おご》れる高下《こうげ》の差別《しやべつ》の自《おのづか》ら種《しゆ》有りて作《な》せるに似たる如此《かくのごと》きを、彼等は更に更に夢《ゆめみ》ざりしなり。その算《かぞ》へざりし奇遇と夢《ゆめみ》ざりし差別《しやべつ》とは、咄々《とつとつ》、相携へて二人の身上《しんじよう》に逼《せま》れるなり。女気《をんなぎ》の脆《もろ》き涙ははや宮の目に湿《うるほ》ひぬ。
「まあ大相お変り遊ばしたこと!」
「貴方《あなた》も変りましたな!」
 さしも見えざりし面《おもて》の傷の可恐《おそろし》きまでに益《ますま》す血を出《いだ》すに、宮は持たりしハンカチイフを与へて拭《ぬぐ》はしめつつ、心も心ならず様子を窺《うかが》ひて、
「お痛みあそばすでせう。少しお待ちあそばしまし」
 彼は何やらん吩咐《いひつ》けて車夫を遣りぬ。
「直《ぢき》この近くに懇意の医者が居りますから、其処《そこ》までいらしつて下さいまし。唯今俥を申附けました」
「何の、そんなに騒ぐほどの事は無いです」
「あれ、お殆《あぶな》うございますよ。さうして大相召上つてゐらつしやるやうですから、ともかくもお俥でお出《いで》あそばしまし」
「いんや、宜《よろし》い、大丈夫。時に間はその後どうしましたか」
 宮は胸先《むなさき》を刃《やいば》の透《とほ》るやうに覚《おぼ》ゆるなりき。
「その事に就きまして色々お話も致したいので御座います」
「然し、どうしてゐますか、無事ですか」
「はい……」
「決して、無事ぢやない筈《はず》です」
 生きたる心地もせずして宮の慙《は》ぢ慄《をのの》ける傍《かたはら》に、車夫は見苦《みぐるし》からぬ一台の辻車《つじぐるま》を伴ひ来《きた》れり。漸《やうや》く面《おもて》を挙《あぐ》れば、いつ又寄りしとも知らぬ人立《ひとたち》を、可忌《いまはし》くも巡査の怪みて近《ちかづ》くなり。

     第 二 章

 鬚深《ひげふか》き横面《よこづら》に貼薬《はりくすり》したる荒尾譲介《あらおじようすけ》は既に蒼《あを》く酔醒《ゑひさ》めて、煌々《こうこう》たる空気ラムプの前に襞※[#「※」は「ころもへん+責」、294−12]《ひだ》もあらぬ袴《はかま》の膝《ひざ》を丈六《じようろく》に組みて、接待莨《せつたいたばこ》の葉巻を燻《くゆ》しつつ意気|粛《おごそか》に、打萎《うち
前へ 次へ
全354ページ中216ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング