る右の高頬《たかほ》を平手に掩《おほ》ひつつ寄来《よりく》る婦人を打見遣《うちみや》りつ。彼はその前に先《ま》づ懦《わるび》れず会釈して、
「どうも取んだ麁相《そそう》を致しまして、何とも相済みませんでございます。おや、お顔を! お目を打《ぶ》ちましたか、まあどうも……」
「いや太《たい》した事は無いのです」
「さやうでございますか。何処《どこ》ぞお痛め遊ばしましたでございませう」
腰を得立てずゐるを、婦人はなほ気遣《きづか》へるなり。
車夫は数次《あまたたび》腰《こし》を屈《かが》めて主人の後方《うしろ》より進出《すすみい》でけるが、
「どうも、旦那《だんな》、誠に申訳もございません、どうか、まあ平《ひら》に御勘弁を願ひます」
眼《まなこ》を其方《そなた》に転じたる酔客は恚《いか》れるとしもなけれど声粛《こゑおごそか》に、
「貴様は善くないぞ。麁相《そそう》を為たと思うたら何為《なぜ》車を駐《と》めん。逃げやうとするから呼止めたんじや。貴様の不心得から主人にも恥を掻《かか》する」
「へい恐入りました」
「どうぞ御勘弁あそばしまして」
俥《くるま》の主の身を下《くだ》して辞《ことば》を添ふれば、彼も打頷《うちうなづ》きて、
「以来気を着けい、よ」
「へい……へい」
「早う行け、行け」
やをら彼は起たんとすなり。さては望外なる主従の喜《よろこび》に引易《ひきか》へて、見物の飽気無《あつけな》さは更に望外なりき。彼等は幕の開かぬ芝居に会へる想して、余《あまり》に落着の蛇尾《だび》振はざるを悔みて、はや忙々《いそがはし》き踵《きびす》を回《かへ》すも多かりけれど、又|見栄《みばえ》あるこの場の模様に名残《なごり》を惜みつつ去り敢《あ》へぬもありけり。
車夫は起ち悩める酔客を扶《たす》けて、履物《はきもの》を拾ひ、鞭《むち》を拾ひて宛行《あてが》へば、主人は帽を清め、ブックを取上げて彼に返し、頭巾を車夫に与へて、懇《ねんごろ》に外套《がいとう》、袴《はかま》の泥を払はしめぬ。免《ゆる》されし罪は消えぬべきも、歴々《まざまざ》と挫傷《すりきず》のその面《おもて》に残れるを見れば、疚《やまし》きに堪へぬ心は、なほ為《な》すべき事あるを吝《をし》みて私《わたくし》せるにあらずやと省られて、彼はさすがに見捨てかねたる人の顔を始は可傷《いたま》しと眺《なが》めたりしに、そ
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