候《うかが》ひゐたり。抜足差足《ぬきあしさしあし》忍び来《きた》れる妻は、後より小声に呼びて、
「貴方、どうしました」
夫は戸の外を指《ゆびさ》してなほ去らざるを示せり。お峯は土間に護謨靴《ゴムぐつ》と油紙との遺散《おちち》れるを見付けて、由無《よしな》き質を取りけるよと思《おも》ひ煩《わづら》へる折しも、
「頼みます、はい、頼みますよ」
と例の声は聞えぬ。お峯は胴顫《どうぶるひ》して、長くここに留《とどま》るに堪へず、夫を勧めて奥に入《い》りにけり。
戸叩く音は後《のち》も撓《たゆ》まず響きたりしが、直行の裏口より出でて窺《うかが》ひける時は、風|吹荒《ふきすさ》ぶ門《かど》の梅の飛雪《ひせつ》の如く乱点して、燈火の微《ほのか》に照す処その影は見えざるなりき。
次の日も例刻になれば狂女は又|訪《と》ひ来れり。主《あるじ》は不在なりとて、婢《をんな》をして彼の遺《のこ》せし二品《ふたしな》を返さしめけるに、前夜の暴《あ》れに暴れし気色《けしき》はなくて、殊勝に聞分けて帰り行きぬ。
お峯はその翌日も必ず来《きた》るべきを懼《おそ》れて夫の在宅を請ひけるが、果して来にけり。又試に婢《をんな》を出《いだ》して不在の由《よし》を言はしめしに、こたびは直《ぢき》に立去らで、
「それぢやお帰来《かへり》までここでお待ち申しませう。実はね、是非お受取申す品があるので、それを持つて帰りませんと都合が悪いのですから、幾日でもお待ち申しますよ」
彼は戸口《かどぐち》に蹲《うづくま》りて動かず。婢は様々に言作《いひこしら》へて賺《すか》しけれど、一声も耳には入《い》らざらんやうに、石仏《いしぼとけ》の如く応ぜざるなり。彼は已《や》む無くこれを奥へ告げぬ。直行も為《せ》ん術《すべ》あらねば棄措《すてお》きたりしに、やや二時間も居て見えずなりぬ。
お峯は心苦《こころぐるし》がりて、この上は唯警察の手を借らんなど噪《さわ》ぐを、直行は人を煩《わづらは》すべき事にはあらずとて聴かず。さらば又と来ざらんやうに逐払《おひはら》ふべき手立《てだて》のありやと責むるに、害を為《な》すにもあらねば、宿無犬《やどなしいぬ》の寝たると想ひて意《こころ》に介《かく》るなとのみ。意《こころ》に介《か》くまじき如きを故《ことさら》に夫には学ばじ、と彼は腹立《はらだたし》く思へり。この一事《いちじ》のみ
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