端無《はしな》く人の呼ぶに駭《おどろか》されて、漸《やうや》く慵《ものう》き枕を欹《そばだ》てつ。
 愕然《がくぜん》として彼は瞳《ひとみ》を凝《こら》せり。ベッドの傍《かたはら》に立てるは、その怪き夢の中に顕《あらは》れて、終始|相離《あひはな》れざりし主人公その人ならずや。打返し打返し視《み》れども訪来《とひきた》れる満枝に紛《まぎれ》あらざりき。とは謂《い》へ、彼は夢か、あらぬかを疑ひて止まず。さるはその真ならんよりなほ夢の中《うち》なるべきを信ずるの当れるを思へるなり、美しさも常に増して、夢に見るべき姿などのやうに四辺《あたり》も可輝《かがやかし》く、五六歳《いつつむつ》ばかりも若《わかや》ぎて、その人の妹なりやとも見えぬ。まして、六十路《むそぢ》に余れる夫有《つまも》てる身と誰《たれ》かは想ふべき。
 髪を台湾銀杏《たいわんいちよう》といふに結びて、飾《かざり》とてはわざと本甲蒔絵《ほんこうまきゑ》の櫛《くし》のみを挿《さ》したり。黒縮緬《くろちりめん》の羽織に夢想裏《むそううら》に光琳風《こうりんふう》の春の野を色入《いろいり》に染めて、納戸縞《なんどじま》の御召の下に濃小豆《こいあづき》の更紗縮緬《さらさちりめん》、紫根七糸《しこんしちん》に楽器尽《がつきつくし》の昼夜帯して、半襟《はんえり》は色糸の縫《ぬひ》ある肉色なるが、頸《えり》の白きを匂《にほ》はすやうにて、化粧などもやや濃く、例の腕環のみは燦爛《きらきら》と煩《うるさ》し。今日は殊《こと》に推《お》して来にけるを、得堪《えた》へず心の尤《とが》むらん風情《ふぜい》にて佇《たたず》める姿《すがた》限無《かぎりな》く嬌《なまめ》きて見ゆ。
「お寝《やすみ》のところを飛んだ失礼を致しました。私《わたくし》上《あが》る筈《はず》ではないのでございますけれど、是非申上げなければなりません事がございますので、些《ちよつ》と伺ひましたのでございますから、今日《こんにち》のところはどうか御堪忍《ごかんにん》あそばして」
 彼の許《ゆるし》を得んまでは席に着くをだに憚《はばか》る如く、満枝は漂《ただよは》しげになほ立てるなり。
「はあ、さやうですか。一昨々日あれ程申上げたのに……」
 内に燃ゆる憤《いかり》を抑《おさ》ふるとともに貫一の言《ことば》は絶えぬ。
「鰐淵さんの事なのでございますの。私困りまして、ど
前へ 次へ
全354ページ中177ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング