も無くて独《ひと》り耀《かがや》けり。
「それでは私もうお暇《いとま》を致します」
「ほう、もう、お帰去《かへり》かな。私《わし》もはや行かん成らんで、其所《そこ》まで御一処に」
「いえ、私|些《ちよつ》と、あの、西黒門町《にしくろもんちよう》へ寄りますでございますから、甚《はなは》だ失礼でございますが……」
「まあ、宜《よろし》い。其処《そこ》まで」
「いえ、本当に今日《こんにち》は……」
「まあ、宜いが、実は、何じや、あの旭座《あさひざ》の株式一件な、あれがつい纏《まとま》りさうぢやで、この際お打合《うちあはせ》をして置かんと、『琴吹《ことぶき》』の収債《とりたて》が面白うない。お目に掛つたのが幸《さいはひ》ぢやから、些《ちよつ》とそのお話を」
「では、明日《みようにち》にでも又、今日は些《ち》と急ぎますでございますから」
「そんなに急にお急ぎにならんでも宜いがな。商売上には年寄も若い者も無い、さう嫌はれてはどうもならん」
姑《しばら》く推《おし》問答の末彼は終《つひ》に満枝を拉《らつ》し去れり。迹《あと》に貫一は悪夢の覚めたる如く連《しきり》に太息《ためいき》※[#「※」は「口+句」、245−14]《つ》いたりしが、やがて為《せ》ん方無げに枕《まくら》に就きてよりは、見るべき物もあらぬ方《かた》に、止《た》だ果無《はてしな》く目を奪れゐたり。
第 五 章
檜葉《ひば》、樅《もみ》などの古葉貧しげなるを望むべき窓の外に、庭ともあらず打荒れたる広場は、唯|麗《うららか》なる日影のみぞ饒《ゆたか》に置余《おきあま》して、そこらの梅の点々《ぼちぼち》と咲初めたるも、自《おのづか》ら怠り勝に風情《ふぜい》作らずと見ゆれど、春の色香《いろか》に出《い》でたるは憐《あはれ》むべく、打霞《うちかす》める空に来馴《きな》るる鵯《ひよ》のいとどしく鳴頻《なきしき》りて、午後二時を過ぎぬる院内の寂々《せきせき》たるに、たまたま響くは患者の廊下を緩《ゆる》う行くなり。
枕の上の徒然《つれづれ》は、この時人を圧して殆《ほとん》ど重きを覚えしめんとす。書見せると見えし貫一は辛《から》うじて夢を結びゐたり。彼は実《げ》に夢ならでは有得べからざる怪《あやし》き夢に弄《もてあそ》ばれて、躬《みづから》も夢と知り、夢と覚さんとしつつ、なほ睡《ねむり》の中に囚《とらは》れしを、
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