禅模様ある紫縮緬《むらさきちりめん》の半襟《はんえり》に韜《つつ》まれたる彼の胸を想へ。その胸の中《うち》に彼は今|如何《いか》なる事を思へるかを想へ。彼は憎からぬ人の帰来《かへり》を待佗《まちわ》ぶるなりけり。
一時《ひとしきり》又|寒《さむさ》の太甚《はなはだし》きを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、火鉢の対面《むかふ》なる貫一が※[#「※」は「ころもへん+因」、28−3]《しとね》の上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。
若《もし》やと聞着けし車の音は漸《やうや》く近《ちかづ》きて、益《ますます》轟《とどろ》きて、竟《つひ》に我門《わがかど》に停《とどま》りぬ。宮は疑無《うたがひな》しと思ひて起たんとする時、客はいと酔《ゑ》ひたる声して物言へり。貫一は生下戸《きげこ》なれば嘗《かつ》て酔《ゑ》ひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又坐りつ。時計を見れば早や十一時に垂《なんな》んとす。
門《かど》の戸|引啓《ひきあ》けて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず唯慌《ただあわ》ててラムプを持ちて出《い》でぬ。台所より婢《をんな》も、出合《いであ》へり。
足の踏所《ふみど》も覚束無《おぼつかな》げに酔ひて、帽は落ちなんばかりに打傾《うちかたむ》き、ハンカチイフに裹《つつ》みたる折を左に挈《さ》げて、山車《だし》人形のやうに揺々《ゆらゆら》と立てるは貫一なり。面《おもて》は今にも破れぬべく紅《くれなゐ》に熱して、舌の乾《かわ》くに堪《た》へかねて連《しきり》に空唾《からつば》を吐きつつ、
「遅かつたかね。さあ御土産《おみやげ》です。還《かへ》つてこれを細君に遣《おく》る。何ぞ仁《じん》なるや」
「まあ、大変酔つて! どうしたの」
「酔つて了《しま》つた」
「あら、貫一《かんいつ》さん、こんな所に寐《ね》ちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
「かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた」
仰様《のけさま》に倒れたる貫一の脚《あし》を掻抱《かきいだ》きて、宮は辛《から》くもその靴を取去りぬ。
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手を牽《ひ》いてくれなければ僕には歩けませんよ」
宮は婢《をんな》に燈《ともし》を把《と》らせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼は踉《よろめ》きつつ肩
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