はんか、或《あるひ》は四十の院長に従はんか、彼の栄誉ある地位は、学士を婿にして鴫沢の後を嗣《つ》ぐの比にはあらざらんをと、一旦|抱《いだ》ける希望《のぞみ》は年と共に太りて、彼は始終昼ながら夢みつつ、今にも貴き人又は富める人又は名ある人の己《おのれ》を見出《みいだ》して、玉の輿《こし》を舁《かか》せて迎に来《きた》るべき天縁の、必ず廻到《めぐりいた》らんことを信じて疑はざりき。彼のさまでに深く貫一を思はざりしは全くこれが為のみ。されども決して彼を嫌《きら》へるにはあらず、彼と添はばさすがに楽《たのし》からんとは念《おも》へるなり。如此《かくのごと》く決定《さだか》にそれとは無けれど又有りとし見ゆる箒木《ははきぎ》の好運を望みつつも、彼は怠らず貫一を愛してゐたり。貫一は彼の己を愛する外にはその胸の中に何もあらじとのみ思へるなりけり。

     第 四 章

 漆の如き闇《やみ》の中《うち》に貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より向島《むこうじま》の八百松《やおまつ》に新年会ありとて未《いま》だ還《かへ》らざるなり。
 宮は奥より手ラムプを持ちて入来《いりき》にけるが、机の上なる書燈を点《とも》し了《をは》れる時、婢《をんな》は台十能に火を盛りたるを持来《もちきた》れり。宮はこれを火鉢《ひばち》に移して、
「さうして奥のお鉄瓶《てつ》も持つて来ておくれ。ああ、もう彼方《あちら》は御寝《おやすみ》になるのだから」
 久《ひさし》く人気《ひとけ》の絶えたりし一間の寒《さむさ》は、今|俄《にはか》に人の温き肉を得たるを喜びて、直《ただ》ちに咬《か》まんとするが如く膚《はだへ》に薄《せま》れり。宮は慌忙《あわただし》く火鉢に取付きつつ、目を挙げて書棚《しよだな》に飾れる時計を見たり。
 夜の闇《くら》く静なるに、燈《ともし》の光の独《ひと》り美き顔を照したる、限無く艶《えん》なり。松の内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帯びたる花の梢《こずゑ》に月のうつろへるが如く、背後《うしろ》の壁に映れる黒き影さへ香滴《にほひこぼ》るるやうなり。
 金剛石《ダイアモンド》と光を争ひし目は惜気《をしげ》も無く※[#「※」は「目+登」、27−17]《みは》りて時計の秒《セコンド》を刻むを打目戍《うちまも》れり。火に翳《かざ》せる彼の手を見よ、玉の如くなり。さらば友
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