りも儚《はかな》き昔の恋を思ひて、私《ひそか》に楽むの味《あぢはひ》あるを覚ゆるなり。
かくなりてより彼は自《おのづか》ら唯継の面前を厭《いと》ひて、寂く垂籠《たれこ》めては、随意に物思ふを懌《よろこ》びたりしが、図らずも田鶴見《たずみ》の邸内《やしきうち》に貫一を見しより、彼のさして昔に変らぬ一介の書生風なるを見しより、一度《ひとたび》は絶えし恋ながら、なほ冥々《めいめい》に行末望あるが如く、さるは、彼が昔のままの容《かたち》なるを、今もその独《ひとり》を守りて、時の到るを待つらんやうに思做《おもひな》さるるなりけり。
その時は果して到るべきものなるか。宮は躬《みづから》の心の底を叩《たた》きて、答を得るに沮《はば》みつつも、さすがに又|己《おのれ》にも知れざる秘密の潜める心地《ここち》して、一面には覚束《おぼつか》なくも、又一面にはとにもかくにも信ぜらるるなり。
便《すなは》ち宮の夫の愛を受くるを難堪《たへがた》く苦しと思知りたるは、彼の写真の鏡面《レンズ》の前に悶絶《もんぜつ》せし日よりにて、その恋しさに取迫《とりつ》めては、いでや、この富めるに※[#「※」は「厭/食」、読みは「あ」、222−1]き、裕《ゆたか》なるに倦《う》める家を棄つべきか、棄てよとならば遅《ためら》はじと思へるも屡々《しばしば》なりき。唯敢《ただあへ》てこれを為《せ》ざるは、窃《ひそか》に望は繋《か》けながらも、行くべき方《かた》の怨《うらみ》を解かざるを虞《おそ》るる故《ゆゑ》のみ。
素《もと》より宮は唯継を愛せざりしかど、決してこれを憎むとにはあらざりき。されど今はしも正にその念は起れるなり。自ら謂《おも》へらく、吾夫《わがをつと》こそ当時恋と富との値《あたひ》を知らざりし己を欺き、空《むなし》く輝ける富を示して、售《う》るべくもあらざりし恋を奪ひけるよ、と悔の余はかかる恨をも他《ひと》に被《き》せて、彼は己を過《あやま》りしをば、全く夫の罪と為《な》せり。
この心なる宮はこの一月十七日に会ひて、この一月十七日の雪に会ひて、いとどしく貫一が事の忍《しの》ばるるに就《つ》けて転《うた》た悪人の夫を厭ふこと甚《はなはだし》かり。無辜《むこ》の唯継はかかる今宵の楽《たのしみ》を授《さづく》るこの美き妻を拝するばかりに、有程《あるほど》の誠を捧げて、蜜《みつ》よりも甘き言《ことば》
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