ひ、それは※[#「※」は「りっしんべん+(篋−竹)」、212−5]《かな》はずなりてより、せめて一筆《ひとふで》の便《たより》聞かずばと更に念ひしに、事は心と渾《すべ》て違《たが》ひて、さしも願はぬ一事《いちじ》のみは玉を転ずらんやうに何等の障《さはり》も無く捗取《はかど》りて、彼が空《むなし》く貫一の便《たより》を望みし一日にも似ず、三月三日は忽《たちま》ち頭《かしら》の上に跳《をど》り来《きた》れるなりき。彼は終《つひ》に心を許し肌身《はだみ》を許せし初恋《はつごひ》を擲《なげう》ちて、絶痛絶苦の悶々《もんもん》の中《うち》に一生最も楽《たのし》かるべき大礼を挙げ畢《をは》んぬ。
 宮は実に貫一に別れてより、始めて己《おのれ》の如何《いか》ばかり彼に恋せしかを知りけるなり。
 彼の出《い》でて帰らざる恋しさに堪《た》へかねたる夕《ゆふべ》、宮はその机に倚《よ》りて思ひ、その衣《きぬ》の人香《ひとか》を嗅《か》ぎて悶《もだ》え、その写真に頬摩《ほほずり》して憧《あくが》れ、彼|若《も》し己《おのれ》を容《い》れて、ここに優き便《たより》をだに聞《きか》せなば、親をも家をも振捨てて、直《ただち》に彼に奔《はし》るべきものをと念へり。結納《ゆいのう》の交《かは》されし日も宮は富山唯継を夫《つま》と定めたる心はつゆ起らざりき。されど、己は終《つひ》にその家に適《ゆ》くべき身たるを忘れざりしなり。
 ほとほと自らその緒《いとぐち》を索《もと》むる能《あた》はざるまでに宮は心を乱しぬ。彼は別れし後の貫一をばさばかり慕ひて止まざりしかど、過《あやまち》を改め、操《みさを》を守り、覚悟してその恋を全うせんとは計らざりけるよ。真《まこと》に彼の胸に恃《たの》める覚悟とてはあらざりき。恋|佗《わ》びつつも心を貫かんとにはあらず、由無き縁を組まんとしたるよと思ひつつも、強《し》ひて今更|否《いな》まんとするにもあらず、彼方《かなた》の恋《こひし》きを思ひ、こなたの富めるを愛《をし》み、自ら決するところ無く、為すところ無くして空《むなし》き迷《まよひ》に弄《もてあそ》ばれつつ、終に移すべからざる三月三日の来《きた》るに会へるなり。
 この日よ、この夕《ゆふべ》よ、更《ふ》けて床盃《とこさかづき》のその期《ご》に※[#「※」は「しんにょう+台」、213−4]《およ》びても、怪《あやし》む
前へ 次へ
全354ページ中151ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング