べし、宮は決して富山唯継を夫《つま》と定めたる心は起らざるにぞありける、止《ただ》この人を夫《つま》と定めざるべからざる我身なるを忘れざりしかど。彼は自ら謂《おも》へり、この心は始より貫一に許したるを、縁ありて身は唯継に委《まか》すなり。故《ゆゑ》に身は唯継に委すとも、心は長く貫一を忘れずと、かく謂《おも》へる宮はこの心事の不徳なるを知れり、されどこの不徳のその身に免《まぬか》る能《あた》はざる約束なるべきを信じて、寧《むし》ろ深く怪むにもあらざりき。如此《かくのごとく》にして宮は唯継の妻となりぬ。
 花聟君《はなむこぎみ》は彼を愛するに二念無く、彼を遇するに全力を挙《あ》げたり。宮はその身の上の日毎輝き勝《まさ》るままに、いよいよ意中の人と私《わたくし》すべき陰無くなりゆくを見て、愈《いよい》よ楽まざる心は、夫《つま》の愛を承くるに慵《ものう》くて、唯《ただ》機械の如く事《つか》ふるに過ぎざりしも、唯継は彼の言《ものい》ふ花の姿、温き玉の容《かたち》を一向《ひたぶる》に愛《め》で悦《よろこ》ぶ余に、冷《ひやや》かに空《むなし》き器《うつは》を抱《いだ》くに異らざる妻を擁して、殆《ほとん》ど憎むべきまでに得意の頤《おとがひ》を撫《な》づるなりき。彼が一段の得意は、二箇月の後最愛の妻は妊《みごも》りて、翌年の春美き男子《なんし》を挙げぬ。宮は我とも覚えず浅ましがりて、産後を三月ばかり重く病みけるが、その癒《い》ゆる日を竣《ま》たで、初子《うひご》はいと弱くて肺炎の為に歿《みまか》りにけり。
 子を生みし後も宮が色香はつゆ移《うつろ》はずして、自《おのづか》ら可悩《なやまし》き風情《ふぜい》の添《そは》りたるに、夫《つま》が愛護の念は益《ますます》深く、寵《ちよう》は人目の見苦《みぐるし》きばかり弥《いよい》よ加《くはは》るのみ。彼はその妻の常に楽《たのし》まざる故《ゆゑ》を毫《つゆ》も暁《さと》らず、始より唯その色を見て、打沈《うちしづ》みたる生得《うまれ》と独合点《ひとりがてん》して多く問はざるなりけり。
 かく怜《いとし》まれつつも宮が初一念は動かんともせで、難有《ありがた》き人の情《なさけ》に負《そむ》きて、ここに嫁《とつ》ぎし罪をさへ歎きて止まざりしに、思はぬ子まで成せし過《あやまち》は如何《いか》にすべきと、躬《みづか》らその容《ゆる》し難きを慙《は》ぢて、
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