「阿母《おつか》さん!」
その術無《じゆつな》き声は謂知《いひし》らず母の胸を刺せり。彼はこの子の幼くて善く病める枕頭《まくらもと》に居たりし心地をそのままに覚えて、ほとほとつと寄らんとしたり。
「それぢや私はもう帰ります」
「あれ何だね、未だ可いよ」
異《あやし》くも遽《にはか》に名残《なごり》の惜《をしま》れて、今は得も放《はな》たじと心牽《こころひか》るるなり。
「もうお中食《ひる》だから、久しぶりで御膳《ごぜん》を食べて……」
「御膳も吭《のど》へは通りませんから……」
第 二 章
主人公なる間貫一が大学第二医院の病室にありて、昼夜を重傷に悩める外《ほか》、身辺に事あらざる暇《いとま》に乗じて、富山に嫁ぎたる宮がその後の消息を伝ふべし。
一月十七日をもて彼は熱海の月下に貫一に別れ、その三月三日を択《えら》びて富山の家に輿入《こしいれ》したりき。その場より貫一の失踪《しつそう》せしは、鴫沢一家《しぎさわいつけ》の為に物化《もつけ》の邪魔払《じやまばらひ》たりしには疑無《うたがひな》かりけれど、家内《かない》は挙《こぞ》りてさすがに騒動しき。その父よりも母よりも宮は更に切なる誠を籠《こ》めて心痛せり。彼はただに棄てざる恋を棄てにし悔に泣くのみならで、寄辺《よるべ》あらぬ貫一が身の安否を慮《おもひはか》りて措《お》く能《あた》はざりしなり。
気強くは別れにけれど、やがて帰り来《こ》んと頼めし心待も、終《つひ》に空《あだ》なるを暁《さと》りし後、さりとも今一度は仮初《かりそめ》にも相見んことを願ひ、又その心の奥には、必ずさばかりの逢瀬《あふせ》は有るべきを、おのれと契りけるに、彼の行方《ゆくへ》は知られずして、その身の家を出《い》づべき日は潮《うしほ》の如く迫れるに、遣方《やるかた》も無く漫《そぞろ》惑ひては、常に鈍《おぞまし》う思ひ下せる卜者《ぼくしや》にも問ひて、後には廻合《めぐりあ》ふべきも、今はなかなか文《ふみ》に便《たより》もあらじと教へられしを、筆持つは篤《まめ》なる人なれば、長き長き怨言《うらみ》などは告来《つげこ》さんと、それのみは掌《たなごころ》を指すばかりに待ちたりしも、疑ひし卜者の言《ことば》は不幸にも過《あやま》たで、宮は彼の怨言《うらみ》をだに聞くを得ざりしなり。
とにもかくにも今一目見ずば動かじと始に念《おも》
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