ひなさるからはきつと用ゐて下さるのでせうな」
「お前の言ふ事は能う解つたさ。然《しか》し、爾《なんぢ》は爾たり、吾は吾たりじや」
直道は怺《こら》へかねて犇《ひし》と拳《こぶし》を握れり。
「まだ若い、若い。書物ばかり見とるぢや可かん、少しは世間も見い。なるほど子の情として親の身を案じてくれる、その点は空《あだ》には思はん。お前の心中も察する、意見も解つた。然し、俺は俺で又自ら信ずるところあつて遣るんぢやから、折角の忠告ぢやからと謂うて、枉《ま》げて従ふ訳にはいかんで、のう。今度間がああ云ふ目に遭うたから、俺は猶更《なほさら》劇《えら》い目に遭はうと謂うて、心配してくれるんか、あ?」
はや言ふも益無しと観念して直道は口を開かず。
「そりや辱《かたじけな》いが、ま、当分俺の躯《からだ》は俺に委《まか》して置いてくれ」
彼は徐《しづか》に立上りて、
「些《ちよつ》とこれから行《い》て来にやならん処があるで、寛《ゆつく》りして行くが可《え》え」
忽忙《そそくさ》と二重外套《にじゆうまわし》を打被《うちかつ》ぎて出《い》づる後より、帽子を持ちて送《おく》れる妻は密《ひそか》に出先を問へるなり。彼は大いなる鼻を皺《しわ》めて、
「俺が居ると面倒ぢやから、些《ちよつ》と出て来る。可《え》えやうに言うての、還《かへ》してくれい」
「へえ? そりや困りますよ。貴方《あなた》、私《わたし》だつてそれは困るぢやありませんか」
「まあ可えが」
「可《よ》くはありません、私は困りますよ」
お峯は足摩《あしずり》して迷惑を訴ふるなりけり。
「お前なら居ても可え。さうして、もう還るぢやらうから」
「それぢや貴方還るまでゐらしつて下さいな」
「俺が居ては還らんからじやが。早う行けよ」
さすがに争ひかねてお峯の渋々|佇《たたず》めるを、見も返らで夫は驀地《まつしぐら》に門《かど》を出でぬ。母は直道の勢に怖《おそ》れて先にも増してさぞや苛《さいな》まるるならんと想へば、虎《とら》の尾をも履《ふ》むらんやうに覚えつつ帰り来にけり。唯《と》見れば、直道は手を拱《こまぬ》き、頭《かしら》を低《た》れて、在りけるままに凝然と坐したり。
「もうお中食《ひる》だが、お前何をお上りだ」
彼は身転《みじろぎ》も為《せ》ざるなり。重ねて、
「直道」と呼べば、始めて覚束《おぼつか》なげに顔を挙《あ》げて、
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