それか非《あら》ぬかを疑へるなり。
 蒼《あを》く羸《やつ》れたる直道が顔は可忌《いまはし》くも白き色に変じ、声は甲高《かんだか》に細りて、膝《ひざ》に置ける手頭《てさき》は連《しき》りに震ひぬ。
「いくら論じたところで、解りきつた理窟なのですから、もう言ひますまい。言へば唯阿父さんの心持を悪くするに過ぎんのです。然し、従来《これまで》も度々《たびたび》言ひましたし、又今日こんなに言ふのも、皆|阿父《おとつ》さんの身を案じるからで、これに就いては陰でどれほど私が始終苦心してゐるか知つてお在《いで》は無からうけれど、考出《かんがへだ》すと勉強するのも何も可厭《いや》になつて、吁《ああ》、いつそ山の中へでも引籠《ひつこ》んで了はうかと思ひます。阿父さんはこの家業を不正でないとお言ひなさるが、実に世間でも地獄の獄卒のやうに憎み賤《いやし》んで、附合ふのも耻《はぢ》にしてゐるのですよ。世間なんぞはかまふものか、と貴方はお言ひでせうが、子としてそれを聞《きか》される心苦しさを察して下さい。貴方はかまはんと謂ふその世間も、やはり我々が渡つて行かなければならん世間です。その世間に肩身が狭くなつて終《つひ》には容《い》れられなくなるのは、男の面目ではありませんよ。私はそれが何より悲い。此方《こつち》に大見識があつて、それが世間と衝突して、その為に憎まれるとか、棄てられるとか謂ふなら、世間は私を棄てんでも、私は喜んで阿父さんと一処に世間に棄てられます。親子棄てられて路辺《みちばた》に餓死《かつゑじに》するのを、私は親子の名誉、家の名誉と思ふのです。今我々親子の世間から疎《うとま》れてゐるのは、自業自得の致すところで、不名誉の極です!」
 眼《まなこ》は痛恨の涙を湧《わか》して、彼は覚えず父の面《おもて》を睨《にら》みたり。直行は例の嘯《うそぶ》けり。
 直道は今日を限と思入りたるやうに飽くまで言《ことば》を止《や》めず。
「今度の事を見ても、如何《いか》に間が恨まれてゐるかが解りませう。貴方《あなた》の手代でさへあの通ではありませんか、して見れば貴方の受けてゐる恨、憎《にくみ》はどんなであるか言ふに忍びない」
 父は忽《たちま》ち遮《さへぎ》りて、
「善し、解つた。能《よ》う解つた」
「では私の言《ことば》を用ゐて下さるか」
「まあ可《え》え。解つた、解つたから……」
「解つたとお言
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