には私が一人子《ひとりつこ》、その私は一銭たりとも貴方の財は譲られません! 欲くないのです。さうすれば、貴方は今日《こんにち》無用の財を貯《たくは》へる為に、人の怨を受けたり、世に誚《そし》られたり、さうして現在の親子が讐《かたき》のやうになつて、貴方にしてもこんな家業を決して名誉と思つて楽んで為《なす》つてゐるのではないでせう。
私のやうなものでも可愛《かはい》いと思つて下さるなら、財産を遺《のこ》して下さる代《かはり》に私の意見を聴いて下さい。意見とは言ひません、私の願です。一生の願ですからどうぞ聴いて下さい」
父が前に頭《かしら》を低《た》れて、輙《たやす》く抗《あ》げぬ彼の面《おもて》は熱き涙に蔽《おほは》るるなりき。
些《さ》も動ずる色無き直行は却《かへ》つて微笑を帯びて、語《ことば》をさへ和《やはら》げつ。
「俺の身を思うてそんなに言うてくれるのは嬉《うれし》いけど、お前のはそれは杞憂《きゆう》と謂ふんじや。俺と違うてお前は神経家ぢやからそんなに思ふんぢやけど、世間と謂ふものはの、お前の考へとるやうなものではない。学問の好きな頭脳《あたま》で実業を遣る者の仕事を責むるのは、それは可かん。人の怨の、世の誚《そしり》のと言ふけどの、我々同業者に対する人の怨などと云ふのは、面々の手前勝手の愚痴に過ぎんのじや。世の誚と云ふのは、多くは嫉《そねみ》、その証拠は、働の無い奴が貧乏しとれば愍《あはれ》まるるじや。何家業に限らず、財《かね》を拵《こしら》へる奴は必ず世間から何とか攻撃を受くる、さうぢやらう。財《かね》の有る奴で評判の好《え》えものは一人も無い、その通じやが。お前は学者ぢやから自《おのづか》ら心持も違うて、財《かね》などをさう貴《たつと》いものに思うてをらん。学者はさうなけりやならんけど、世間は皆学者ではないぞ、可《え》えか。実業家の精神は唯財《ただかね》じや、世の中の奴の慾も財より外には無い。それほどに、のう、人の欲《ほし》がる財じや、何ぞ好《え》えところが無くてはならんぢやらう。何処《どこ》が好《え》えのか、何でそんなに好《え》えのかは学者には解らん。
お前は自身に供給するに足るほどの財《かね》があつたら、その上に望む必要は無いと言ふのぢやな、それが学者の考量《かんがへ》じやと謂ふんじやが。自身に足るほどの物があつたら、それで可《え》えと満足し
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