阿父《おとつ》さんが、大怪我を為《なす》つたと出てをつたので、早速お見舞に参つたのです」
白髪《しらが》を交《まじ》へたる茶褐色《ちやかつしよく》の髪の頭《かしら》に置余るばかりなるを撫《な》でて、直行は、
「何新聞か知らんけれど、それは間の間違ぢやが。俺《おれ》ならそんな場合に出会うたて、唯々《おめおめ》打《うた》れちやをりやせん。何の先は二人でないかい、五人までは敵手《あひて》にしてくれるが」
直道の隣に居たる母は密《ひそか》に彼のコオトの裾《すそ》を引きて、言《ことば》を返させじと心|着《づく》るなり。これが為に彼は少しく遅《ためら》ひぬ。
「本《ほん》にお前どうした、顔色《かほつき》が良うないが」
「さうですか。余り貴方《あなた》の事が心配になるからです」
「何じや?」
「阿父さん、度々《たびたび》言ふ事ですが、もう金貸は廃《や》めて下さいな」
「又! もう言ふな。言ふな。廃める時分には廃めるわ」
「廃めなければならんやうになつて廃めるのは見《みつ》ともない。今朝|貴方《あなた》が半死半生の怪我をしたといふ新聞を見た時、私《わたし》はどんなにしても早くこの家業をお廃めなさるやうに為《さ》せなかつたのを熟《つくづ》く後悔したのです。幸《さいはひ》に貴方は無事であつた、から猶更《なほさら》今日は私の意見を用ゐて貰《もら》はなければならんのです。今に阿父さんも間のやうな災難を必ず受けるですよ。それが可恐《おそろし》いから廃めると謂ふのぢやありません、正《ただし》い事で争つて殞《おと》す命ならば、決《け》して辞することは無いけれど、金銭づくの事で怨《うらみ》を受けて、それ故《ゆゑ》に無法な目に遭《あ》ふのは、如何《いか》にも恥曝《はぢさら》しではないですか。一つ間違へば命も失はなければならん、不具《かたは》にも為《さ》れなければならん、阿父さんの身の上を考へると、私は夜も寝られんのですよ。
こんな家業を為《せ》んでは生活が出来んのではなし、阿父さん阿母さん二人なら、一生安楽に過せるほどの資産は既に有るのでせう、それに何を苦んで人には怨まれ、世間からは指弾《つまはぢき》をされて、無理な財《かね》を拵《こしら》へんければならんのですか。何でそんなに金が要《い》るのですか。誰にしても自身に足りる以外の財《かね》は、子孫に遺《のこ》さうと謂ふより外は無いのでせう。貴方
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