浅ましさに我を忘れてつと迸《ほとばし》る哭声《なきごゑ》は、咬緊《くひし》むる歯をさへ漏れて出づるを、母は驚き、途方に昏《く》れたる折しも、門《かど》に俥《くるま》の駐《とどま》りて、格子の鐸《ベル》の鳴るは夫の帰来《かへり》か、次手《ついで》悪しと胸を轟《とどろ》かして、直道の肩を揺り動《うごか》しつつ、声を潜めて口早に、
「直道、阿父さんのお帰来《かへり》だから、泣いてゐちや可けないよ、早く彼方《あつち》へ行つて、……よ、今日は後生だから何も言はずに……」
 はや足音は次の間に来《きた》りぬ。母は慌《あわ》てて出迎に起《た》てば、一足遅れに紙門《ふすま》は外より開れて主《あるじ》直行の高く幅たき躯《からだ》は岸然《のつそり》とお峯の肩越《かたごし》に顕《あらは》れぬ。

     (一) の 二

「おお、直道か珍いの。何時《いつ》来たのか」
 かく言ひつつ彼は艶々《つやつや》と赭《あから》みたる鉢割《はちわれ》の広き額の陰に小く点せる金壺眼《かねつぼまなこ》を心快《こころよ》げに※[#「※」は「目+登」、201−13]《みひら》きて、妻が例の如く外套《がいとう》を脱《ぬが》するままに立てり。お峯は直道が言《ことば》に稜《かど》あらんことを慮《おもひはか》りて、さり気無く自ら代りて答へつ。
「もう少し先《さつき》でした。貴君《あなた》は大相お早かつたぢやありませんか、丁度|好《よ》ございましたこと。さうして間の容体はどんなですね」
「いや、仕合《しあはせ》と想うたよりは軽くての、まあ、ま、あの分なら心配は無いて」
 黒一楽《くろいちらく》の三紋《みつもん》付けたる綿入羽織《わたいればおり》の衣紋《えもん》を直して、彼は機嫌《きげん》好く火鉢《ひばち》の傍《そば》に歩み寄る時、直道は漸《やうや》く面《おもて》を抗《あ》げて礼を作《な》せり。
「お前、どうした、ああ、妙な顔をしてをるでないか」
 梭櫚《しゆろ》の毛を植ゑたりやとも見ゆる口髭《くちひげ》を掻拈《かいひね》りて、太短《ふとみじか》なる眉《まゆ》を顰《ひそ》むれば、聞ゐる妻は呀《はつ》とばかり、刃《やいば》を踏める心地も為めり。直道は屹《き》と振仰ぐとともに両手を胸に組合せて、居長高《ゐたけだか》になりけるが、父の面《おもて》を見し目を伏せて、さて徐《しづか》に口を開きぬ。
「今朝新聞を見ましたところが、
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