ることも出来ず、陰で心配するばかりで、何の役にも立たないながら、これでなかなか苦いのは私の身だよ。
 さぞお前は気も済まなからうけれど、とても今のところでは何と言つたところが、応と承知をしさうな様子は無いのだから、憖《なまじ》ひ言合つてお互に心持を悪くするのが果《おち》だから、……それは、お前、何と云つたつて親一人子一人の中だもの、阿父さんだつて心ぢやどんなにお前が便《たより》だか知れやしないのだから、究竟《つまり》はお前の言ふ事も聴くのは知れてゐるのだし、阿父さんだつて現在の子のそんなにまで思つてゐるのを、決して心に掛けないのではないけれども、又|阿父《おとつ》さんの方にも其処《そこ》には了簡《りようけん》があつて、一概にお前の言ふ通にも成りかねるのだらう。
 それに今日あたりは、間の事で大変気が立つてゐるところだから、お前が何か言ふと却《かへ》つて善くないから、今日は窃《そつ》として措《お》いておくれ、よ、本当に私が頼むから、ねえ直道」
 実《げ》に母は自ら言へりし如く、板挾《いたばさみ》の難局に立てるなれば、ひたすら事あらせじと、誠の一図に直道を諭《さと》すなりき。彼は涙の催すに堪《た》へずして、鼻目鏡《はなめがね》を取捨てて目を推拭《おしぬぐ》ひつつ猶|咽《むせ》びゐたりしが、
「阿母《おつか》さんにさう言れるから、私は不断は怺《こら》へてゐるのです。今日ばかり存分に言はして下さい。今日言はなかつたら言ふ時は有りませんよ。間のそんな目に遭《あ》つたのは天罰です、この天罰は阿父さんも今に免れんことは知れてゐるから、言ふのなら今、今言はんくらゐなら私はもう一生言ひません」
 母はその一念に脅《おびやか》されけんやうにて漫《そぞろ》寒きを覚えたり。洟打去《はなうちか》みて直道は語《ことば》を継ぎぬ。
「然し私《わたし》の仕打も善くはありません、阿父さんの方にも言分は有らうと、それは自分で思つてゐます。阿父さんの家業が気に入らん、意見をしても用ゐない、こんな汚《けが》れた家業を為るのを見てゐるのが可厭《いや》だ、と親を棄てて別居してゐると云ふのは、如何《いか》にも情合の無い話で、実に私も心苦いのです。決して人の子たる道ではない、さぞ不孝者と阿父さん始阿母さんもさう思つてお在《いで》でせう」
「さうは思ひはしないよ。お前の方にも理はあるのだから、さうは思ひはしないけれ
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