子は無いのですかね」
 母は苦しげに鈍り鈍りて、
「さうねえ……別に何とも……私《わたし》には能《よ》く解らないね……」
「もう今に応報《むくい》は阿父さんにも……。阿母さん、間があんな目に遭《あ》つたのは、決して人事ぢやありませんよ」
「お前又阿父さんの前でそんな事をお言ひでないよ」
「言ひます! 今日は是非言はなければならない」
「それは言ふも可いけれど、従来《これまで》も随分お言ひだけれど、あの気性だから阿父さんは些《ちつと》もお聴きではないぢやないか。とても他《ひと》の言ふことなんぞは聴かない人なのだから、まあ、もう少しお前も目を瞑《つぶ》つてお在《いで》よ、よ」
「私《わたし》だつて親に向つて言ひたくはありません。大概の事なら目を瞑《つぶ》つてゐたいのだけれど、実にこればかりは目を瞑つてゐられないのですから。始終さう思ひます。私は外に何も苦労といふものは無い、唯これだけが苦労で、考出すと夜も寝られないのです。外にどんな苦労が在つても可いから、どうかこの苦労だけは没《なくな》して了《しま》ひたいと熟《つくづ》く思ふのです。噫《ああ》、こんな事なら未《ま》だ親子で乞食をした方が夐《はるか》に可い」
 彼は涙を浮べて倆《うつむ》きぬ。母はその身も倶《とも》に責めらるる想して、或《あるひ》は可慚《はづかし》く、或は可忌《いまはし》く、この苦《くるし》き位置に在るに堪《た》へかねつつ、言解かん術《すべ》さへ無けれど、とにもかくにも言はで已《や》むべき折ならねば、辛《からう》じて打出《うちいだ》しつ。
「それはもうお前の言ふのは尤《もつとも》だけれど、お前と阿父《おとつ》さんとは全《まる》で気合《きあひ》が違ふのだから、万事|考量《かんがへ》が別々で、お前の言ふ事は阿父さんの肚《はら》には入らず、ね、又阿父さんの為る事はお前には不承知と謂《い》ふので、その中へ入つて私も困るわね。内も今では相応にお財《かね》も出来たのだから、かう云ふ家業は廃《や》めて、楽隠居になつて、お前に嫁を貰《もら》つて、孫の顔でも見たい、とさう思ふのだけれど、ああ云ふ気の阿父さんだから、そんなことを言出さうものなら、どんなに慍《おこ》られるだらうと、それが見え透いてゐるから、漫然《うつかり》した事は言はれずさ、お前の心を察して見れば可哀《かあい》さうではあり、さうかと云つて何方《どつち》をどうす
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