に、血の道を悩める心地《ここち》にて、※[#「※」は「りっしんべん+(夢−夕)/目」、194−14]々《うつらうつら》となりては驚かされつつありける耳元に、格子《こうし》の鐸《ベル》の轟《とどろ》きければ、はや夫の帰来《かへり》かと疑ひも果てぬに、紙門《ふすま》を開きて顕《あらは》せる姿は、年紀《としのころ》二十六七と見えて、身材《たけ》は高からず、色やや蒼《あを》き痩顔《やせがほ》の険《むづか》しげに口髭逞《くちひげたくまし》く、髪の生《お》ひ乱れたるに深々《ふかふか》と紺ネルトンの二重外套《にじゆうまわし》の襟《えり》を立てて、黒の中折帽を脱ぎて手にしつ。高き鼻に鼈甲縁《べつこうぶち》の眼鏡を挿《はさ》みて、稜《かど》ある眼色《まなざし》は見る物毎に恨あるが如し。
 妻は思設けぬ面色《おももち》の中に喜を漾《たた》へて、
「まあ直道《ただみち》かい、好くお出《いで》だね」
 片隅《かたすみ》に外套《がいとう》を脱捨つれば、彼は黒綾《くろあや》のモオニングの新《あたらし》からぬに、濃納戸地《こいなんどじ》に黒縞《くろじま》の穿袴《ズボン》の寛《ゆたか》なるを着けて、清《きよら》ならぬ護謨《ゴム》のカラ、カフ、鼠色《ねずみいろ》の紋繻子《もんじゆす》の頸飾《えりかざり》したり。妻は得々《いそいそ》起ちて、その外套を柱の折釘《をりくぎ》に懸けつ。
「どうも取んだ事で、阿父《おとつ》さんの様子はどんな? 今朝新聞を見ると愕《おどろ》いて飛んで来たのです。容体《ようだい》はどうです」
 彼は時儀を叙《の》ぶるに※[#「※」は「しんにょう+台」、195−9]《およ》ばずして忙《せは》しげにかく問出《とひい》でぬ。
「ああ新聞で、さうだつたかい。なあに阿父さんはどうも作《なさ》りはしないわね」
「はあ? 坂町で大怪我《おほけが》を為《なす》つて、病院へ入つたと云ふのは?」
「あれは間《はざま》さ。阿父さんだとお思ひなの? 可厭《いや》だね、どうしたと云ふのだらう」
「いや、さうですか。でも、新聞には歴然《ちやん》とさう出てゐましたよ」
「それぢやその新聞が違つてゐるのだよ。阿父さんは先之《さつき》病院へ見舞にお出掛だから、間も無くお帰来《かへり》だらう。まあ寛々《ゆつくり》してお在《いで》な」
 かくと聞ける直道は余《あまり》の不意に拍子抜して、喜びも得為《えせ》ず唖然《あぜ
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