》されざりしを本意無《ほいな》く思へるなるべし。又或者は彼の即死せざりしをも物足らず覚ゆるなるべし。下手人は不明なれども、察するに貸借上の遺趣より為《な》せる業《わざ》ならんとは、諸新聞の記《しる》せる如く、人も皆思ふところなりけり。
 直行は今朝病院へ見舞に行きて、妻は患者の容体を案じつつ留守せるなり。夫婦は心を協《あは》せて貫一の災難を悲《かなし》み、何程の費《つひえ》をも吝《をし》まず手宛《てあて》の限を加へて、少小《すこし》の瘢《きず》をも遺《のこ》さざらんと祈るなりき。
 股肱《ここう》と恃《たの》み、我子とも思へる貫一の遭難を、主人はなかなかその身に受けし闇打《やみうち》のやうに覚えて、無念の止み難く、かばかりの事に屈する鰐淵ならぬ令見《みせしめ》の為に、彼が入院中を目覚《めざまし》くも厚く賄《まかな》ひて、再び手出しもならざらんやう、陰《かげ》ながら卑怯者《ひきようもの》の息の根を遏《と》めんと、気も狂《くるはし》く力を竭《つく》せり。
 彼の妻は又、やがてはかかる不慮の事の夫の身にも出《い》で来《きた》るべきを思過《おもひすご》して、若《も》しさるべからんには如何《いか》にか為《す》べき、この悲しさ、この口惜《くちを》しさ、この心細さにては止《や》まじと思ふに就けて、空可恐《そらおそろし》く胸の打騒ぐを禁《とど》め得ず。奉公大事ゆゑに怨《うらみ》を結びて、憂き目に遭《あ》ひし貫一は、夫の禍《わざはひ》を転じて身の仇《あだ》とせし可憫《あはれ》さを、日頃の手柄に増して浸々《しみじみ》難有《ありがた》く、かれを念《おも》ひ、これを思ひて、絶《したたか》に心弱くのみ成行くほどに、裏に愧《は》づること、懼《おそ》るること、疚《やまし》きことなどの常に抑《おさ》へたるが、忽《たちま》ち涌立《わきた》ち、跳出《をどりい》でて、その身を責むる痛苦に堪《た》へざるなりき。
 年久く飼《かは》るる老猫《ろうみよう》の凡《およ》そ子狗《こいぬ》ほどなるが、棄てたる雪の塊《かたまり》のやうに長火鉢《ながひばち》の猫板《ねこいた》の上に蹲《うづくま》りて、前足の隻落《かたしおと》して爪頭《つまさき》の灰に埋《うづも》るるをも知らず、※[#「※」は「鼻+句」、194−13]《いびき》をさへ掻《か》きて熟睡《うまい》したり。妻はその夜の騒擾《とりこみ》、次の日の気労《きづかれ》
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