は小鬢《こびん》を掠《かす》り、肩を辷《すべ》りて、鞄《かばん》持つ手を断《ちぎ》れんとすばかりに撲《う》ちけるを、辛《から》くも忍びてつと退《の》きながら身構《みがまへ》しが、目潰吃《めつぶしくら》ひし一番手の怒《いかり》を作《な》して奮進し来《きた》るを見るより今は危《あやふ》しと鞄の中なる小刀《こがたな》撈《かいさぐ》りつつ馳出《はせい》づるを、輙《たやす》く肉薄せる二人が笞《しもと》は雨の如く、所嫌《ところきら》はぬ滅多打《めつたうち》に、彼は敢無《あへな》くも昏倒《こんとう》せるなり。
檳「どうです、もう可いに為ませうか」
弓「此奴《こいつ》おれの鼻面《はなづら》へ下駄を打着けよつた、ああ、痛《いた》」
 衿巻|掻除《かきの》けて彼の撫《な》でたる鼻は朱《あけ》に染みて、西洋|蕃椒《たうがらし》の熟《つ》えたるに異らず。
檳「おお、大変な衂《はなぢ》ですぜ」
 貫一は息も絶々ながら緊《しか》と鞄を掻抱《かきいだ》き、右の逆手《さかて》に小刀を隠し持ちて、この上にも狼藉《ろうぜき》に及ばば為《せ》んやう有りと、油断を計りてわざと為す無き体《てい》を装《よそほ》ひ、直呻《ひたうめ》きにぞ呻きゐたる。
弓「憎い奴じや。然し、随分|撲《う》つたの」
檳「ええ、手が痛くなつて了ひました」
弓「もう引揚げやう」
 かくて曲者は間近の横町に入《い》りぬ。辛《から》うじて面《おもて》を擡《あ》げ得たりし貫一は、一時に発せる全身の疼通《いたみ》に、精神|漸《やうや》く乱れて、屡《しばし》ば前後を覚えざらんとす。
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  後    編


     第 一 章

 翌々日の諸新聞は坂町《さかまち》に於ける高利貸《アイス》遭難の一件を報道せり。中《うち》に間《はざま》貫一を誤りて鰐淵直行《わにぶちただゆき》と為《せ》るもありしが、負傷者は翌日大学第二医院に入院したりとのみは、一様に事実の真を伝ふるなりけり。されどその人を誤れる報道は決して何等の不都合をも生ぜざるべし。彼等を識《し》らざる読者は湯屋の喧嘩《けんか》も同じく、三ノ面記事の常套《じようとう》として看過《みすご》すべく、何の遑《いとま》かその敵手《あひて》の誰々《たれたれ》なるを問はん。識れる者は恐くは、貫一も鰐淵も一つに足腰の利《き》かずなるまで撃※[#「※」は「足+(殕−歹)」、193−12]《うちのめ
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