を、怪しと女の面《おもて》を窺《うかが》へるなり。満枝は打背《うちそむ》けたる顔の半《なかば》をシオウルの端《はし》に包みて、握れる手をば弥《いよい》よ固く緊《し》めたり。
「さあ、もう放して下さい」
益《ますま》す緊めて袖《そで》の中へさへ曳入れんとすれば、
「貴方、馬鹿な事をしては可けません」
女は一語《ひとこと》も言はず、面も背けたるままに、その手は益《ますます》放たで男の行く方《かた》に歩めり。
「常談しちや可かんですよ。さあ、後《うしろ》から人が来る」
「宜《よろし》うございますよ」
独語《ひとりご》つやうに言ひて、満枝は弥《いよいよ》寄添ひつ。貫一は怺《こら》へかねて力任せに吽《うん》と曳けば、手は離れずして、女の体のみ倒れかかりぬ。
「あ、痛《いた》! そんな酷《ひど》い事をなさらなくても、其処《そこ》の角まで参ればお放し申しますから、もう少しの間どうぞ……」
「好い加減になさい」
と暴《あらら》かに引払《ひつぱら》ひて、寄らんとする隙《ひま》もあらせず摩脱《すりぬ》くるより足を疾《はや》めて津守坂《つのかみざか》を驀直《ましぐら》に下りたり。
やうやう昇れる利鎌《とかま》の月は乱雲《らんうん》を芟《か》りて、※[#「※」は「しんにょう+向」、190−9]《はるけ》き梢《こずゑ》の頂《いただき》に姑《しばら》く掛れり。一抹《いちまつ》の闇《やみ》を透きて士官学校の森と、その中なる兵営と、その隣なる町の片割《かたわれ》とは、懶《ものう》く寝覚めたるやうに覚束《おぼつか》なき形を顕《あらは》しぬ。坂上なる巡査派出所の燈《ともし》は空《むなし》く血紅《けつこう》の光を射て、下り行きし男の影も、取残されし女の姿も終《つひ》に見えず。
(八) の 二
片側町《かたかはまち》なる坂町《さかまち》は軒並《のきなみ》に鎖《とざ》して、何処《いづこ》に隙洩《すきも》る火影《ひかげ》も見えず、旧砲兵営の外柵《がいさく》に生茂《おひしげ》る群松《むらまつ》は颯々《さつさつ》の響を作《な》して、その下道《したみち》の小暗《をぐら》き空に五位鷺《ごいさぎ》の魂切《たまき》る声消えて、夜色愁ふるが如く、正《まさ》に十一時に垂《なんな》んとす。
忽《たちま》ち兵営の門前に方《あた》りて人の叫ぶが聞えぬ、間貫一は二人の曲者《くせもの》に囲れたるなり。一人《
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