いますから、鰐淵《わにぶち》さんの事に就きましてね、私はこれ程困つた事はございませんの。で、是非貴方に御相談を願はうと存じまして、……」
 唯《と》見れば伝馬町《てんまちよう》三丁目と二丁目との角なり。貫一はここにて満枝を撒《ま》かんと思ひ設けたるなれば、彼の語り続くるをも会釈|為《せ》ずして立住《たちどま》りつ。
「それぢや私はここで失礼します」
 その不意に出《い》でて貫一の闇《くら》き横町に入《い》るを、
「あれ、貴方《あなた》、其方《そちら》からいらつしやるのですか。この通をいらつしやいましなね、わざわざ、そんな寂《さびし》い道をお出《いで》なさらなくても、此方《こつち》の方が順ではございませんか」
 満枝は離れ難なく二三間追ひ行きたり。
「なあに、此方《こつち》が余程近いのですから」
「幾多《いくら》も違ひは致しませんのに、賑《にぎや》かな方をいらつしやいましよ。私その代り四谷|見附《みつけ》の所までお送り申しますから」
「貴方に送つて戴《いただ》いたつて為やうが無い。夜が更《ふ》けますから、貴方も早く買物を為すつてお帰りなさいまし」
「そんなお為転《ためごかし》を有仰《おつしや》らなくても宜《よろし》うございます」
 かく言争ひつつ、行くにもあらねど留るにもあらぬ貫一に引添ひて、不知不識《しらずしらず》其方《そなた》に歩ませられし満枝は、やにはに立竦《たちすく》みて声を揚げつ。
「ああ! 間さん些《ちよつ》と」
「どうしました」
「路悪《みちわる》へ入つて了《しま》つて、履物《はきもの》が取れないのでございますよ」
「それだから貴方はこんな方へお出《い》でなさらんが可いのに」
 彼は渋々寄り来《きた》れり。
「憚様《はばかりさま》ですが、この手を引張つて下さいましな。ああ、早く、私転びますよ」
 シォウルの外に援《たすけ》を求むる彼の手を取りて引寄すれば、女は※[#「※」は「足+禹」、189−5]《よろめ》きつつ泥濘《ぬかるみ》を出でたりしが、力や余りけん、身を支へかねて※[#「※」は「てへん+堂」、189−6]《どう》と貫一に靠《もた》れたり。
「ああ、危い」
「転びましたら貴方《あなた》の所為《せゐ》でございますよ」
「馬鹿なことを」
 彼はこの時|扶《たす》けし手を放たんとせしに、釘付《くぎつけ》などにしたらんやうに曳《ひ》けども振れども得離れざる
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