死苦の若《し》かざる絶痛を与ふるを思ひては、彼はよし天に人に憤るところあるも、懼《おそ》るべき無しと為《せ》るならん。貫一の最も懼れ、最も憚るところは自《みづから》の心のみなりけり。

     第 八 章

 用談果つるを俟《ま》ちて貫一の魚膠無《にべな》く暇乞《いとまごひ》するを、満枝は暫《しば》しと留置《とどめお》きて、用有りげに奥の間にぞ入《い》りたる。その言《ことば》の如く暫し待てども出《い》で来《こ》ざれば、又|巻莨《まきたばこ》を取出《とりいだ》しけるに、手炉《てあぶり》の炭は狼《おほかみ》の糞《ふん》のやうになりて、いつか火の気の絶えたるに、檀座《たんざ》に毛糸の敷物したる石笠《いしがさ》のラムプの※[#「※」は「(諂−言)+炎」、185−6]《ほのほ》を仮りて、貫一は為《せ》う事無しに煙《けふり》を吹きつつ、この赤樫《あかがし》の客間を夜目ながら※[#「※」は「目+句」、185−7]《みまは》しつ。
 袋棚《ふくろだな》なる置時計は十時十分前を指せり。違棚には箱入の人形を大小二つ並べて、その下は七宝焼擬《しつぽうやきまがひ》の一輪挿《いちりんざし》、蝋石《ろうせき》の飾玉を水色縮緬《みづいろちりめん》の三重《みつがさね》の褥《しとね》に載せて、床柱なる水牛の角の懸花入《かけはないれ》は松に隼《はやぶさ》の勧工場|蒔絵《まきゑ》金々《きんきん》として、花を見ず。鋳物《いもの》の香炉の悪古《わるふる》びに玄《くす》ませたると、羽二重《はぶたへ》細工の花筐《はなかたみ》とを床に飾りて、雨中《うちゆう》の富士をば引攪旋《ひきかきまは》したるやうに落墨して、金泥精描の騰竜《のぼりりゆう》は目貫《めぬき》を打つたるかとばかり雲間《くもま》に耀《かがや》ける横物《よこもの》の一幅。頭《かしら》を回《めぐ》らせば、※[#「※」は「木+眉」、185−12]間《びかん》に黄海《こうかい》大海戦の一間程なる水彩画を掲げて座敷の隅《すみ》には二鉢《ふたばち》の菊を据ゑたり。
 やや有りて出来《いできた》れる満枝は服を改めたるなり。糸織の衿懸《えりか》けたる小袖《こそで》に納戸《なんど》小紋の縮緬の羽織着て、七糸《しつちん》と黒繻子《くろじゆす》との昼夜帯して、華美《はで》なるシオウルを携へ、髪など撫付《なでつ》けしと覚《おぼし》く、面《おもて》も見違ふやうに軽く粧《よそほ
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