あつ》めたる眉《まゆ》と空《むなし》く凝《こら》せる目とは、体力の漸《やうや》く衰ふるに反して、精神の愈《いよい》よ興奮するとともに、思の益《ますま》す繁《しげ》く、益す乱るるを、従ひて芟《か》り、従ひて解かんとすれば、なほも繁り、なほも乱るるを、竟《つひ》に如何《いか》に為《せ》ばや、と心も砕けつつ打悩めるを示せり。更に見よ、漆のやうに鮮潤《つややか》なりし髪は、後脳の辺《あたり》に若干《そくばく》の白きを交《まじ》へて、額に催せし皺《しわ》の一筋長く横《よこた》はれるぞ、その心の窄《せばま》れる襞《ひだ》ならざるべき、況《いは》んや彼の面《おもて》を蔽《おほ》へる蔭は益《ますま》す暗きにあらずや。
 吁《ああ》、彼はその初一念を遂《と》げて、外面《げめん》に、内心に、今は全くこの世からなる魔道に墜《お》つるを得たりけるなり。貪欲界《どんよくかい》の雲は凝《こ》りて歩々《ほほ》に厚く護《まも》り、離恨天《りこんてん》の雨は随所|直《ただち》に灑《そそ》ぐ、一飛《いつぴ》一躍出でては人の肉を啖《くら》ひ、半生半死|入《い》りては我と膓《はらわた》を劈《つんざ》く。居《を》る所は陰風常に廻《めぐ》りて白日を見ず、行けども行けども無明《むみよう》の長夜《ちようや》今に到るまで一千四百六十日、逢《あ》へども可懐《なつかし》き友の面《おもて》を知らず、交《まじは》れども曾《かつ》て情《なさけ》の蜜《みつ》より甘きを知らず、花咲けども春日《はるび》の麗《うららか》なるを知らず、楽来《たのしみきた》れども打背《うちそむ》きて歓《よろこ》ぶを知らず、道あれども履《ふ》むを知らず、善あれども与《くみ》するを知らず、福《さいはひ》あれども招くを知らず、恵あれども享《う》くるを知らず、空《むなし》く利欲に耽《ふけ》りて志を喪《うしな》ひ、偏《ひとへ》に迷執に弄《もてあそ》ばれて思を労《つか》らす、吁《ああ》、彼は終《つひ》に何をか成さんとすらん。間貫一の名は漸《やうや》く同業者間に聞えて、恐るべき彼の未来を属目《しよくもく》せざるはあらずなりぬ。
 かの堪《た》ふべからざる痛苦と、この死をも快くせんとする目的とあるが為に、貫一の漸く頻《しきり》なる厳談酷促《げんだんこくそく》は自《おのづ》から此処《ここ》に彼処《かしこ》に債務者の怨《うらみ》を買ひて、彼の為に泣き、彼の為に憤るもの寡《
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