なし、妹《いもと》の一部分となし、或《あるひ》は父の、兄の一部分とも為《な》して宮の一身は彼に於ける愉快なる家族の団欒《まどひ》に値せしなり、故《ゆゑ》に彼の恋は青年を楽む一場《いちじよう》の風流の麗《うるはし》き夢に似たる類《たぐひ》ならで、質はその文《ぶん》に勝てるものなりけり。彼の宮に於《お》けるは都《すべ》ての人の妻となすべき以上を妻として、寧《むし》ろその望むところ多きに過ぎずやと思はしむるまでに心に懸けて、自《みづから》はその至当なるを固く信ずるなりき。彼はこの世に一人の宮を得たるが為に、万木|一時《いちじ》に花を着くる心地して、曩《さき》の枯野に夕暮れし石も今|将《は》た水に温《ぬく》み、霞《かすみ》に酔《ゑ》ひて、長閑《のどか》なる日影に眠る如く覚えけんよ。その恋のいよいよ急に、いよいよ濃《こまやか》になり勝《まさ》れる時、人の最も憎める競争者の為に、しかも輙《たやす》く宮を奪はれし貫一が心は如何《いか》なりけん。身をも心をも打委《うちまか》せて詐《いつは》ることを知らざりし恋人の、忽ち敵の如く己《おのれ》に反《そむ》きて、空《むなし》く他人に嫁するを見たる貫一が心は更に如何《いか》なりけん。彼はここに於いて曩《さき》に半箇の骨肉の親むべきなく、一点の愛情の温むるに会はざりし凄寥《せいりよう》を感ずるのみにて止《とどま》らず、失望を添へ、恨を累《かさ》ねて、かの塊然たる野末《のずゑ》の石は、霜置く上に凩《こがらし》の吹誘ひて、皮肉を穿《うが》ち来《きた》る人生の酸味の到頭骨に徹する一種の痛苦を悩みて已《や》まざるなりき。実に彼の宮を奪れしは、その甞《かつ》て与へられし物を取去られし上に、与へられざりし物をも併《あは》せて取去られしなり。
 彼は或《あるひ》はその恨を抛《なげう》つべし、なんぞその失望をも忘れざらん。されども彼は永くその痛苦を去らしむる能はざるべし、一旦《ひとたび》太《いた》くその心を傷《きずつ》けられたるかの痛苦は、永くその心の存在と倶《とも》に存在すべければなり。その業務として行はざるべからざる残忍刻薄を自ら強《し》ふる痛苦は、能《よ》く彼の痛苦と相剋《あひこく》して、その間《かん》聊《いささ》か思《おもひ》を遣るべき余地を窃《ぬす》み得るに慣れて、彼は漸《やうや》く忍ぶべからざるを忍びて為し、恥づべきをも恥ぢずして行ひけるほどに、
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