証書といふのはどうして知つたのだ」
「それは知らん。何でも可いから一つ二つ奪つて置けば、奴を退治《たいじ》る材料になると考へたから、早業をして置いたのだが、思ひきやこれが覘《ねら》ふ敵《かたき》の証書ならんとは、全く天の善に与《くみ》するところだ」
風「余り善でもない。さうしてあれを此方《こつち》へ取つて了へば、三百円は蹈《ふ》めるのかね」
蒲「大蹈《おほふ》め! 少し悪党になれば蹈める」
風「然し、公正証書であつて見ると……」
蒲「あつても差支無《さしつかへな》い。それは公証人役場には証書の原本が備付けてあるから、いざと云ふ日にはそれが物を言ふけれど、この正本《せいほん》さへ引揚げてあれば、間貫一いくら地動波動《じたばた》したつて『河童《かつぱ》の皿に水の乾《かわ》いた』同然、かうなれば無証拠だから、矢でも鉄砲でも持つて来いだ。然し、全然《まるまる》蹈むのもさすがに不便《ふびん》との思召《おぼしめし》を以つて、そこは何とか又色を着けて遣らうさ。まあまあ君達は安心してゐたまへ。蒲田弁理公使が宜《よろし》く樽爼《そんそ》の間《かん》に折衝して、遊佐家を泰山《たいざん》の安きに置いて見せる。嗚呼《ああ》、実に近来の一大快事だ!」
 人々の呆《あき》るるには目も掛けず、蒲田は証書を推戴《おしいただ》き推戴きて、
「さあ、遊佐君の為に万歳を唱へやう。奥さん、貴方《あなた》が音頭《おんど》をお取んなさいましよ――いいえ、本当に」
 小心なる遊佐はこの非常手段を極悪大罪と心安からず覚ゆるなれど、蒲田が一切を引受けて見事に埒《らち》開けんといふに励されて、さては一生の怨敵《おんてき》退散の賀《いはひ》と、各《おのおの》漫《そぞろ》に前《すす》む膝を聚《あつ》めて、長夜《ちようや》の宴を催さんとぞ犇《ひしめ》いたる。

     第 七 章

 茫々《ぼうぼう》たる世間に放れて、蚤《はや》く骨肉の親むべき無く、況《いはん》や愛情の温《あたた》むるに会はざりし貫一が身は、一鳥も過ぎざる枯野の広きに塊然《かいぜん》として横《よこた》はる石の如きものなるべし。彼が鴫沢《しぎさわ》の家に在りける日宮を恋ひて、その優き声と、柔《やはらか》き手と、温き心とを得たりし彼の満足は、何等の楽《たのしみ》をも以外に求むる事を忘れしめき。彼はこの恋人をもて妻とし、生命として慊《あきた》らず、母の一部分と
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