何ならんと主《あるじ》の妻も鼻の下を延べて窺《うかが》へり。
風「何だか僕も始めてお目に掛るのだ」
 彼は先づその一通を取りて披見《ひらきみ》るに、鰐淵直行に対する債務者は聞きも知らざる百円の公正証書謄本なり。
 二人は蒲田が案外の物持てるに驚《おどろか》されて、各《おのおの》息を凝《こら》して※[#「※」は「目+登」、176−17]《みは》れる眼《まなこ》を動さず。蒲田も無言の間《うち》に他の一通を取りて披《ひら》けば、妻はいよいよ近《ちかづ》きて差覗《さしのぞ》きつ。四箇《よつ》の頭顱《かしら》はラムプの周辺《めぐり》に麩《ふ》に寄る池の鯉《こひ》の如く犇《ひし》と聚《あつま》れり。
「これは三百円の証書だな」
 一枚二枚と繰り行けば、債務者の中に鼻の前《さき》なる遊佐良橘の名をも署《しる》したり、蒲田は弾機仕掛《ばねじかけ》のやうに躍《をど》り上りて、
「占めた! これだこれだ」
 驚喜の余り身を支へ得ざる遊佐の片手は鶤《しやも》の鉢《はち》の中にすつぱと落入り、乗出す膝頭《ひざがしら》に銚子《ちようし》を薙倒《なぎたふ》して、
「僕のかい、僕のかい」
「どう、どう、どう」と証書を取らんとする風早が手は、筋《きん》の活動《はたらき》を失へるやうにて幾度《いくたび》も捉《とら》へ得ざるなりき。
「まあ!」と叫びし妻は忽《たちま》ち胸塞《むねふたが》りて、その後を言ふ能はざるなり。蒲田は手の舞ひ、膝の蹈《ふ》むところを知らず、
「占めたぞ! 占めたぞ!! 難有《ありがた》い!!!」
 証書は風早の手に移りて、遊佐とその妻と彼と六《むつ》の目を以《も》て子細にこれを点検して、その夢ならざるを明《あきら》めたり。
「君はどうしたのだ」
 風早の面《おもて》はかつ呆《あき》れ、かつ喜び、かつ懼《をそ》るるに似たり。やがて証書は遊佐夫婦の手に渡りて、打拡げたる二人が膝の上に、これぞ比翼読なるべき。更に麦酒《ビイル》の満《まん》を引きし蒲田は「血は大刀に滴《したた》りて拭《ぬぐ》ふに遑《いとま》あらざる」意気を昂《あ》げて、
「何と凄《すご》からう。奴を捩伏《ねぢふ》せてゐる中に脚《あし》で掻寄《かきよ》せて袂《たもと》へ忍ばせたのだ――早業《はやわざ》さね」
「やはり嘉納流にあるのかい」
「常談言つちや可かん。然しこれも嘉納流の教外別伝《きようげべつでん》さ」
「遊佐の
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