何だか酷く心持が悪くてなりませんから、今日はこれで還して下さいまし。これは長座《ちようざ》をいたしてお邪魔でございました。それでは遊佐さん、いづれ二三日の内に又上つてお話を願ひます」
 忽《たちま》ち打つて変りし貫一の様子に蒲田は冷笑《あざわらひ》して、
「間、貴様は犬の糞《くそ》で仇《かたき》を取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には自今《これから》毎《いつ》でも蒲田が現れて取挫《とりひし》いで遣るから」
「間も男なら犬の糞ぢや仇《かたき》は取らない」
「利《き》いた風なことを言ふな」
風「これさ、もう好加減にしないかい。間も帰り給へ。近日是非篤と話をしたいから、何事もその節だ。さあ、僕が其処《そこ》まで送らう」
 遊佐と風早とは起ちて彼を送出《おくりいだ》せり。主《あるじ》の妻は縁側より入《い》り来《きた》りぬ。
「まあ、貴方《あなた》、お蔭様で難有《ありがた》う存じました。もうもうどんなに好い心持でございましたらう」
「や、これは。些《ちよつ》と壮士《そうし》芝居といふところを」
「大相|宜《よろし》い幕でございましたこと。お酌を致しませう」
 件《くだん》の騒動にて四辺《あたり》の狼藉《ろうぜき》たるを、彼は効々《かひかひ》しく取形付けてゐたりしが、二人はやがて入来《いりく》るを見て、
「風早さん、どうもお蔭様で助りました、然し飛んだ御迷惑様で。さあ、何も御坐いませんけれど、どうぞ貴下方|御寛《ごゆる》り召上つて下さいまし」
 妻の喜は溢《あふ》るるばかりなるに引易《ひきか》へて、遊佐は青息《あをいき》※[#「※」は「口+句」、176−4]《つ》きて思案に昏《く》れたり。
「弱つた! 君がああして取緊《とつち》めてくれたのは可いが、この返報に那奴《あいつ》どんな事を為るか知れん。明日《あした》あたり突然《どん》と差押《さしおさへ》などを吃《くは》せられたら耐《たま》らんな」
「余り蒲田が手酷《てひど》い事を為るから、僕も、さあ、それを案じて、惴々《はらはら》してゐたぢやないか。嘉納流も可いけれど、後前《あとさき》を考へて遣つてくれなくては他迷惑《はためいわく》だらうぢやないか」
「まあ、待ち給へと言ふことさ」
 蒲田は袂《たもと》の中を撈《かいさぐ》りて、揉皺《もめしわ》みたる二通の書類を取出《とりいだ》しつ。
風「それは何だ」
遊「どうしたのさ」

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