遊佐なり。
「ここで飲んぢや旨《うま》くないね。さうして形が付かなければ、何時《いつ》までだつて帰りはせんよ。酒が仕舞《しまひ》になつてこればかり遺《のこ》られたら猶《なほ》困る」
「宜《よろし》い、帰去《かへり》には僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、おい、間と言ふのに」
「はい」
「貴様、妻君有るのか。おお、風早!」
と彼は横手を拍《う》ちて不意に※[#「※」は「口+斗」、170−16]《さけ》べば、
「ええ、吃驚《びつくり》する、何だ」
「憶出《おもひだ》した。間の許婚《いひなづけ》はお宮、お宮」
「この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、今日《こんにち》ぢや大きに日済《ひなし》などを貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事を為《さ》しちや可かんよ。けれども高利貸《アイス》などは、これで却《かへ》つて女子《をんな》には温《やさし》いとね、間、さうかい。彼等の非義非道を働いて暴利を貪《むさぼ》る所以《ゆゑん》の者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好きな栄耀《えよう》がして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外に無いのだと謂ふが、さうなのかね。我々から考へると、人情の忍ぶ可からざるを忍んで、経営|惨憺《さんたん》と努めるところは、何ぞ非常の目的があつて貨《かね》を殖《こしら》へるやうだがな、譬《たと》へば、軍用金を聚《あつ》めるとか、お家の宝を質請《しちうけ》するとか。単に己《おのれ》の慾を充さうばかりで、あんな思切つて残刻な仕事が出来るものではないと想ふのだ。許多《おほく》のガリガリ亡者《もうじや》は論外として、間貫一に於《おい》ては何ぞ目的が有るのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだから、必ず非常の目的が有つて存《そん》するのだらう」
秋の日は忽《たちま》ち黄昏《たそが》れて、稍《やや》早けれど燈《ともし》を入るるとともに、用意の酒肴《さけさかな》は順を逐《お》ひて運び出《いだ》されぬ。
「おつと、麦酒《ビイル》かい、頂戴《ちようだい》。鍋《なべ》は風早の方へ、煮方は宜《よろし》くお頼み申しますよ。うう、好い松茸《まつだけ》だ。京でなくてはかうは行かんよ――中が真白《ましろ》で、庖丁《ほうちよう》が軋《きし》むやうでなくては。今年は不作《はづれ》だね、瘠《や》せてゐて、虫が多い、あの雨が障《さは》つたのさ。間、どう
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