ぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我々を侮蔑《ぶべつ》したこの有様を、荒尾譲介《あらおじようすけ》に見せて遣りたい! 貴様のやうな畜生に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様の安否を苦にしてな、実の弟《おとと》を殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つて鬱《ふさ》いでゐたぞ。その一言《いちごん》に対しても少しは良心の眠《ねむり》を覚せ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事は為んから、今日は順《おとなし》く帰れ、帰れ」
「受取るものを受取らなくては帰れもしません。貴下方《あなたがた》がそれまで遊佐さんの件に就いて御心配下さいますなら、かう為《な》すつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形は遊佐さんから戴きまして、この方の形《かた》はそれで一先《ひとまづ》附くのですから、改めて三百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして」
 蒲田はこの手段を知るの経験あるなり。
「うん、宜《よろし》い」
「ではさう為《なす》つて下さるか」
「うん、宜い」
「さう致せば又お話の付けやうもあります」
「然し気の毒だな、無利息、十個年賦《じつかねんぷ》は」
「ええ? 常談ぢやありません」
 さすがに彼の一本参りしを、蒲田は誇りかに嘲笑《せせらわらひ》しつ。
風「常談は措いて、いづれ四五日|内《うち》に篤《とく》と話を付けるから、今日のところは、久しぶりで会つた僕等の顔を立てて、何も言はずに帰つてくれ給へな」
「さう云ふ無理を有仰《おつしや》るで、私の方も然るべき御挨拶[#「然るべき御挨拶」に傍点]が出来なくなるのです。既に遊佐さんも御承諾なのですから、この手形はお貰ひ申して帰ります。未だ外《ほか》へ廻るで急ぎますから、お話は後日|寛《ゆつく》り伺ひませう。遊佐さん、御印を願ひますよ。貴方《あなた》御承諾なすつて置きながら今になつて遅々《ぐづぐづ》なすつては困ります」
蒲「疫病神《やくびようがみ》が戸惑《とまどひ》したやうに手形々々と煩《うるさ》い奴だ。俺《おれ》が始末をして遣らうよ」
 彼は遊佐が前なる用紙を取りて、
蒲「金壱百拾七円……何だ、百拾七円とは」
遊「百十七円? 九十円だよ」
蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」
 かかる事は能《よ》く知りながら彼はわざ
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