ちま》ち身の熱するを覚えて、その誰なるやを憶出《おもひいだ》せるなり。
「これはお珍《めづらし》い。何方《どなた》かと思ひましたら、蒲田君に風早君。久くお目に掛りませんでしたが、いつもお変無く」
蒲「その後はどうですか、何か当時は変つた商売をお始めですな――儲《まうか》りませう」
貫一は打笑《うちゑ》みて、
「儲りもしませんが、間違つてこんな事になつて了ひました」
彼の毫《いささか》も愧《は》づる色無きを見て、二人は心陰《こころひそか》に呆《あき》れぬ。侮《あなど》りし風早もかくては与《くみ》し易《やす》からず思へるなるべし。
蒲「儲けづくであるから何でも可いけれど、然《しか》し思切つた事を始めましたね。君の性質で能《よ》くこの家業が出来ると思つて感服しましたよ」
「真人間に出来る業《わざ》ぢやありませんな」
これ実に真人間にあらざる人の言《ことば》なり。二人はこの破廉耻《はれんち》の老面皮《ろうめんぴ》を憎しと思へり。
蒲「酷《ひど》いね、それぢや君は真人間でないやうだ」
「私《わたし》のやうな者が憖《なまじ》ひ人間の道を守つてをつたら、とてもこの世の中は渡れんと悟りましたから、学校を罷《や》めるとともに人間も罷めて了つて、この商売を始めましたので」
風「然し真人間時分の朋友であつた僕等にかうして会つてゐる間だけは、依旧《やはり》真人間で居てもらひたいね」
風早は親しげに放笑せり。
蒲「さうさう、それ、あの時分|浮名《うきな》の聒《やかまし》かつた、何とか云つたけね、それ、君の所に居つた美人さ」
貫一は知らざる為《まね》してゐたり。
風「おおおおあれ? さあ、何とか云つたつけ」
蒲「ねえ、間君、何とか云つた」
よしその旧友の前に人間の面《おもて》を赧《あか》めざる貫一も、ここに到りて多少の心を動かさざるを得ざりき。
「そんなつまらん事を」
蒲「この頃はあの美人と一所ですか、可羨《うらやまし》い」
「もう昔話は御免下さい。それでは遊佐さん、これに御印《ごいん》を願ひます」
彼は矢立《やたて》の筆を抽《ぬ》きて、手形用紙に金額を書入れんとするを、
風「ああ些《ちよつ》と、その手形はどう云ふのですね」
貫一の簡単にその始末を述ぶるを聴きて、
「成程|御尤《ごもつとも》、そこで少しお話を為たい」
蒲田は姑《しばら》く助太刀の口を噤《つぐ》みて、皺嗄声《し
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