《きん》も下さらない?」
「無いから遣れん!」
 貫一は目を側めて遊佐が面《おもて》を熟《じ》と候《うかが》へり。その冷《ひややか》に鋭き眼《まなこ》の光は異《あやし》く彼を襲ひて、坐《そぞろ》に熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐は忽《たちま》ち吾に復《かへ》れるやうに覚えて、身の危《あやふ》きに処《を》るを省みたり。一時を快くする暴言も竟《つひ》に曳《ひか》れ者《もの》の小唄《こうた》に過ぎざるを暁《さと》りて、手持無沙汰《てもちぶさた》に鳴《なり》を鎮めつ。
「では、何《いつ》ごろ御都合が出来るのですか」
 機を制して彼も劣らず和《やはら》ぎぬ。
「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」
「聢《しか》と相違ございませんか」
「十六日なら相違ない」
「それでは十六日まで待ちますから……」
「延期料かい」
「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら宜《よろし》うございませう」
「宜い事も無い……」
「不承を有仰《おつしや》るところは少しも有りはしません、その代り何分《なんぶん》か今日《こんにち》お遣《つかは》し下さい」
 かく言ひつつ手鞄《てかばん》を開きて、約束手形の用紙を取出《とりいだ》せり。
「銭は有りはせんよ」
「僅少《わづか》で宜《よろし》いので、手数料として」
「又手数料か! ぢや一円も出さう」
「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」
「五円なんと云ふ金円《かね》は有りはせん」
「それぢや、どうも」
 彼は遽《にはか》に躊躇《ちゆうちよ》して、手形用紙を惜めるやうに拈《ひね》るなりけり。
「ええ、では三円ばかり出さう」
 折から紙門《ふすま》を開きけるを弗《ふ》と貫一の※[#「※」は「目+是」、160−6]《みむか》ふる目前《めさき》に、二人の紳士は徐々《しづしづ》と入来《いりきた》りぬ。案内も無くかかる内証の席に立入りて、彼等の各《おのおの》心得顔なるは、必ず子細あるべしと思ひつつ、彼は少《すこし》く座を動《ゆる》ぎて容《かたち》を改めたり。紳士は上下《かみしも》に分れて二人が間に坐りければ、貫一は敬ひて礼を作《な》せり。
蒲「どうも曩《さき》から見たやうだ、見たやうだと思つてゐたら、間君ぢやないか」
風「余り様子が変つたから別人かと思つた。久く会ひませんな」
 貫一は愕然《がくぜん》として二人の面《おもて》を眺めたりしが、忽《た
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