昔の顔で一つ談判せうぢやないか。我々が口を利くのだ、奴もさう阿漕《あこぎ》なことは言ひもすまい。次手《ついで》に何とか話を着けて、元金《もときん》だけか何かに負けさして遣らうよ。那奴《あいつ》なら恐れることは無い」
 彼の起ちて帯締直すを蒲田は見て、
「まるで喧嘩《けんか》に行くやうだ」
「そんな事を言はずに自分も些《ちつ》と気凛《きりつ》とするが可い、帯の下へ時計の垂下《ぶらさが》つてゐるなどは威厳を損じるぢやないか」
「うむ、成程」と蒲田も立上りて帯を解けば、主《あるじ》の妻は傍《かたはら》より、
「お羽織をお取りなさいましな」
「これは憚様《はばかりさま》です。些《ちよつ》と身支度に婦人の心添《こころぞへ》を受けるところは堀部安兵衛《ほりべやすべえ》といふ役だ。然し芝居でも、人数《にんず》が多くて、支度をする方は大概取つて投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ」
「馬鹿な! 間《はざま》如きに」
「急に強くなつたから可笑《をかし》い。さあ。用意は好《い》いよ」
「此方《こつち》も可《い》い」
 二人は膝を正して屹《き》と差向へり。
妻「お茶を一つ差上げませう」
蒲「どうしても敵討《かたきうち》の門出《かどで》だ。互に交す茶盃《ちやさかづき》か」

     第 六 章

 座敷には窘《くるし》める遊佐と沈着《おちつ》きたる貫一と相対して、莨盆《たばこぼん》の火の消えんとすれど呼ばず、彼の傍《かたはら》に茶托《ちやたく》の上に伏せたる茶碗《ちやわん》は、嘗《かつ》て肺病患者と知らで出《いだ》せしを恐れて除物《のけもの》にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。
 遊佐は憤《いきどほり》を忍べる声音《こわね》にて、
「それは出来んよ。勿論《もちろん》朋友《ほうゆう》は幾多《いくら》も有るけれど、書替の連帯を頼むやうな者は無いのだから。考へて見給へ、何《なん》ぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでも可いぢやないか」
 貫一の声は重きを曳《ひ》くが如く底強く沈みたり。
「敢《あへ》て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替は出来んと、それでは私《わたくし》の方が立ちません。何方《どちら》とも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、固《もと》より貴方《あなた》がお引
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