なり》と蚊帳《かや》が捫択《もんちやく》してゐるやうなものだ」
風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」
蒲「さう、多度《たんと》も行かんが、天狗《てんぐ》の風早に二十遣るのさ」
 二人は劣らじと諍《あらが》ひし末、直《ただち》に一番の勝負をいざいざと手薬煉《てぐすね》引きかくるを、遊佐は引分けて、
「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後で寛《ゆつく》り出来るさ。帰つて風呂にでも入《い》つて、それから徐々《そろそろ》始めやうよ」
 往来繁《ゆききしげ》き町を湯屋の角より入《い》れば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店も雑《まじ》りながら閑静に、家並《やなみ》整へる中程に店蔵《みせぐら》の質店《しちや》と軒ラムプの並びて、格子木戸《こうしきど》の内を庭がかりにしたる門《かど》に楪葉《ゆづりは》の立てるぞ遊佐が居住《すまひ》なる。
 彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻は出《い》で来《きた》りて、伴へる客あるを見て稍《やや》打惑へる気色《けしき》なりしが、遽《にはか》に笑《ゑみ》を含みて常の如く迎へたり。
「さあ、どうぞお二階へ」
「座敷は?」と夫に尤《とが》められて、彼はいよいよ困《こう》じたるなり。
「唯今《ただいま》些《ちよい》と塞《ふさが》つてをりますから」
「ぢや、君、二階へどうぞ」
 勝手を知れる客なれば※[#「※」は「にんべん+從」、146−8]々《づかづか》と長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、
「鰐淵《わにぶち》から参つてをりますよ」
「来たか!」
「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、些《ちよい》とお会ひなすつて、早く還《かへ》してお了《しま》ひなさいましな」
「松茸《まつだけ》はどうした」
 妻はこの暢気《のんき》なる問に驚かされぬ。
「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」
「待てよ。それからこの間の黒麦酒《くろビイル》な……」
「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。私《わたし》は那奴《あいつ》が居ると思ふと不快《いや》な心持で」
 遊佐も差当りて当惑の眉《まゆ》を顰《ひそ》めつ。二階にては例の玉戯《ビリアアド》の争《あらそひ》なるべし、さも気楽に高笑《たかわらひ》するを妻はいと心憎く。
 少間《しばし》ありて遊佐は二階に昇り来《きた》れり。
蒲「浴《ゆ》に
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