う。故々《わざわざ》御招《おまねき》申しまして甚《はなは》だ恐入りました。もう彼地《あつち》へは御出陣にならんが宜《よろし》うございます。何もございませんがここで何卒《どうぞ》御寛《ごゆる》り」
「ところがもう一遍行つて見やうかとも思ふの」
「へえ、又いらつしやいますか」
 物は言はで打笑《うちゑ》める富山の腮《あぎと》は愈《いよいよ》展《ひろが》れり。早くもその意を得てや破顔《はがん》せる主《あるじ》の目は、薄《すすき》の切疵《きりきず》の如くほとほと有か無きかになりぬ。
「では御意《ぎよい》に召したのが、へえ?」
 富山は益《ますます》笑《ゑみ》を湛《ただ》へたり。
「ございましたらう、さうでございませうとも」
「何故《なぜ》な」
「何故も無いものでございます。十目《じゆうもく》の見るところぢやございませんか」
 富山は頷《うなづ》きつつ、
「さうだらうね」
「あれは宜《よろし》うございませう」
「一寸《ちよいと》好いね」
「まづその御意《おつもり》でお熱いところをお一盞《ひとつ》。不満家《むづかしや》の貴方《あなた》が一寸好いと有仰《おつしや》る位では、余程《よつぽど》尤物《まれもの》と思はなければなりません。全く寡《すくな》うございます」
 倉皇《あたふた》入来《いりきた》れる内儀は思ひも懸けず富山を見て、
「おや、此方《こちら》にお在《いで》あそばしたのでございますか」
 彼は先の程より台所に詰《つめ》きりて、中入《なかいり》の食物の指図《さしづ》などしてゐたるなりき。
「酷《ひど》く負けて迯《に》げて来ました」
「それは好く迯げていらつしやいました」
 例の歪《ゆが》める口を窄《すぼ》めて内儀は空々《そらぞら》しく笑ひしが、忽《たちま》ち彼の羽織の紐《ひも》の偏《かたかた》断《ちぎ》れたるを見尤《みとが》めて、環《かん》の失せたりと知るより、慌《あわ》て驚きて起たんとせり、如何《いか》にとなればその環は純金製のものなればなり。富山は事も無げに、
「なあに、宜《よろし》い」
「宜いではございません。純金《きん》では大変でございます」
「なあに、可《い》いと言ふのに」と聞きも訖《をは》らで彼は広間の方《かた》へ出《い》でて行けり。
「時にあれの身分はどうかね」
「さやう、悪い事はございませんが……」
「が、どうしたのさ」
「が、大《たい》した事はございません
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