座敷へお出《いで》あそばして、お休み遊ばしましては如何《いかが》でございます」
「そんなに顔色が悪うございますか」
「はい、真蒼《まつさを》でゐらつしやいます」
「ああさうですか、困りましたね。それでは彼方《あちら》へ参つて、又皆さんに御心配を懸けると可《い》けませんから、お庭を一周《ひとまはり》しまして、その内には気分が復《なほ》りますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変|貴方《あなた》のお世話になりまして、お蔭様で私も……」
「あれ、飛んでもない事を有仰《おつしや》います」
貴婦人はその無名指《むめいし》より繍眼児《めじろ》の押競《おしくら》を片截《かたきり》にせる黄金《きん》の指環を抜取りて、懐紙《ふところかみ》に包みたるを、
「失礼ですが、これはお礼のお証《しるし》に」
静緒は驚き怖《おそ》れたるなり。
「はい……かう云ふ物を……」
「可《よ》うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、阿父様《おとつさま》にも阿母様《おつかさま》にも誰にも有仰《おつしや》らないやうに、ねえ」
受けじと為るを手籠《てごめ》に取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の麁朶橋《そたばし》近く寄る時、書院の静なるに夫の高笑《たかわらひ》するが聞えぬ。
宮はこの散歩の間に勉《つと》めて気を平《たひら》げ、色を歛《をさ》めて、ともかくも人目を※[#「※」は「しんにょう+官」、138−1]《のが》れんと計れるなり。されどもこは酒を窃《ぬす》みて酔はざらんと欲するに同《おなじ》かるべし。
彼は先に遭《あ》ひし事の胸に鏤《ゑ》られたらんやうに忘るる能《あた》はざるさへあるに、なかなか朽ちも果てざりし恋の更に萠出《もえい》でて、募りに募らんとする心の乱《みだれ》は、堪《た》ふるに難《かた》き痛苦《くるしみ》を齎《もたら》して、一歩は一歩より、胸の逼《せま》ること急に、身内の血は尽《ことごと》くその心頭《しんとう》に注ぎて余さず熬《い》らるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は打寛《うちくつろ》ぎて意任《こころまか》せの我が家に独り居たらんぞ可《よ》き。人に接して強《し》ひて語り、強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな可煩《わづらは》しと、例の劇《はげし》く唇《くちびる》を咬《か》みて止まず。
築山陰《つきやまかげ》の野路《のぢ》を写せる径《
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