姿は忽《たちま》ち彼の目に入りぬ。一人は畔柳の娘なりとは疾《と》く知られけれど、顔打背《かほうちそむ》けたる貴婦人の眩《まばゆ》く着飾りたるは、子爵家の客なるべしと纔《わづか》に察せらるるのみ。互に歩み寄りて一間ばかりに近《ちかづ》けば、貫一は静緒に向ひて慇懃《いんぎん》に礼するを、宮は傍《かたはら》に能《あた》ふ限は身を窄《すぼ》めて密《ひそか》に流盻《ながしめ》を凝したり。その面《おもて》の色は惨として夕顔の花に宵月の映《うつろ》へる如く、その冷《ひややか》なるべきもほとほと、相似たりと見えぬ。脚《あし》は打顫《うちふる》ひ打顫ひ、胸は今にも裂けぬべく轟《とどろ》くを、覚《さと》られじとすれば猶《なほ》打顫ひ猶轟きて、貫一が面影の目に沁《し》むばかり見ゆる外は、生きたりとも死にたりとも自ら分かぬ心地してき。貫一は帽を打着て行過ぎんとする際《きは》に、ふと目鞘《めざや》の走りて、館の賓《まらうど》なる貴婦人を一|瞥《べつ》せり。端無《はしな》くも相互《たがひ》の面《おもて》は合へり。宮なるよ! 姦婦《かんぷ》なるよ! 銅臭の肉蒲団《にくぶとん》なるよ! とかつは驚き、かつは憤り、はたと睨《ね》めて動かざる眼《まなこ》には見る見る涙を湛《たた》へて、唯|一攫《ひとつかみ》にもせまほしく肉の躍《をど》るを推怺《おしこら》へつつ、窃《ひそか》に歯咬《はがみ》をなしたり。可懐《なつか》しさと可恐《おそろ》しさと可耻《はづか》しさとを取集めたる宮が胸の内は何に喩《たと》へんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば抱付《いだきつ》きても思ふままに苛《さいな》まれんをと、心のみは憧《あこが》れながら身を如何《いかに》とも為難《しがた》ければ、せめてこの誠は通ぜよかしと、見る目に思を籠《こ》むるより外はあらず。
 貫一はつと踏出して始の如く足疾《あしばや》に過行けり。宮は附人《つきひと》に面を背《そむ》けて、唇《くちびる》を咬《か》みつつ歩めり。驚きに驚かされし静緒は何事とも弁《わきま》へねど、推《すい》すべきほどには推して、事の秘密なるを思へば、賓《まらうど》の顔色のさしも常ならず変りて可悩《なやま》しげなるを、問出でんも可《よし》や否《あし》やを料《はか》りかねて、唯|可慎《つつまし》う引添ひて行くのみなりしが、漸く庭口に来にける時、
「大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お
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