まだらがき》の此方《こなた》に、樫《かし》の実の夥《おびただし》く零《こぼ》れて、片側《かたわき》に下水を流せる細路《ほそみち》を鶏の遊び、犬の睡《ねむ》れるなど見るも悒《いぶせ》きに、静緒は急ぎ返さんとせるなり。貴婦人もはや返さんとするとともに恐懼《おそれ》は忽《たちま》ちその心を襲へり。
 この一筋道を行くなれば、もしかの人の出来《いできた》るに会はば、遁《のが》れんやうはあらで明々地《あからさま》に面《おもて》を合すべし。さるは望まざるにもあらねど、静緒の見る目あるを如何《いか》にせん。仮令《たとひ》此方《こなた》にては知らぬ顔してあるべきも、争《いか》でかの人の見付けて驚かざらん。固《もと》より恨を負へる我が身なれば、言《ことば》など懸けらるべしとは想はねど、さりとてなかなか道行く人のやうには見過されざるべし。ここに宮を見たるその驚駭《おどろき》は如何ならん。仇《あだ》に遇《あ》へるその憤懣《いきどほり》は如何ならん。必ずかの人の凄《すさまじ》う激せるを見ば、静緒は幾許《いかばかり》我を怪むらん。かく思ひ浮ぶると斉《ひとし》く身内は熱して冷《つめた》き汗を出《いだ》し、足は地に吸るるかとばかり竦《すく》みて、宮はこれを想ふにだに堪《た》へざるなりけり。脇道《わきみち》もあらば避けんと、静緒に問へば有らずと言ふ。知りつつもこの死地に陥りたるを悔いて、遣《や》る方も無く惑へる宮が面色《おももち》の穏《やす》からぬを見尤《みとが》めて、静緒は窃《ひそか》に目を側《そば》めたり。彼はいとどその目を懼《おそ》るるなるべし。今は心も漫《そぞろ》に足を疾《はや》むれば、土蔵の角《かど》も間近になりて其処《そこ》をだに無事に過ぎなば、と切《しきり》に急がるる折しも、人の影は突《とつ》としてその角より顕《あらは》れつ。宮は眩《めくるめ》きぬ。
 これより帰りてともかくもお峯が前は好《よ》きやうに言譌《いひこしら》へ、さて篤と実否を糺《ただ》せし上にて私《ひそか》に為《せ》んやうも有らんなど貫一は思案しつつ、黒の中折帽を稍《やや》目深《まぶか》に引側《ひきそば》め、通学に馴《なら》されし疾足《はやあし》を駆りて、塗籠《ぬりこめ》の角より斜《ななめ》に桐の並木の間《あひ》を出でて、礫道《ざりみち》の端を歩み来《きた》れり。
 四辺《あたり》に往来《ゆきき》のあるにあらねば、二人の
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