邸内《やしきうち》でございます。これから直《ぢき》に見えまする、あの、倉の左手に高い樅《もみ》の木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます」
「おや、さうで。それではこの下から直《ずつ》とお宅の方へ行《い》かれますのね」
「さやうでございます。お邸の裏門の側でございます」
「ああさうですか。では些《ちつ》とお庭の方からお邸内を見せて下さいましな」
「お邸内と申しても裏門の方は誠に穢《きたな》うございまして、御覧あそばすやうな所はございませんです」
 宮はここを去らんとして又|葉越《はごし》の面影を窺《うかが》へり。
「付かない事をお聞き申すやうですが、那処《あすこ》にお父様《とつさま》とお話をしてゐらつしやるのは何地《どちら》の方ですか」
 彼の親達は常に出入《でいり》せる鰐淵《わにぶち》の高利貸なるを明さざれば、静緒は教へられし通りを告《つぐ》るなり。
「他《あれ》は番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの売買《うりかひ》を致してをります者の手代で、間《はざま》とか申しました」
「はあ、それでは違ふか知らん」
 宮は聞えよがしに独語《ひとりご》ちて、その違《たが》へるを訝《いぶか》るやうに擬《もてな》しつつ又|其方《そなた》を打目戍《うちまも》れり。
「番町はどの辺で?」
「五番町だとか申しました」
「お宅へは始終見えるのでございますか」
「はい、折々参りますのでございます」
 この物語に因《よ》りて宮は彼の五番町なる鰐淵といふに身を寄するを知り得たれば、この上は如何《いか》にとも逢ふべき便《たより》はあらんと、獲難《えがた》き宝を獲たるにも勝《まさ》れる心地せるなり。されどもこの後相見んことは何日《いつ》をも計られざるに、願うては神の力も及ぶまじき今日の奇遇を仇《あだ》に、余所《よそ》ながら見て別れんは本意無《ほいな》からずや。若《も》し彼の眼《まなこ》に睨《にら》まれんとも、互の面《おもて》を合せて、言《ことば》は交《かは》さずとも切《せめ》ては相見て相知らばやと、四年《よとせ》を恋に饑《う》ゑたる彼の心は熬《いら》るる如く動きぬ。
 さすがに彼の気遣《きづか》へるは、事の危《あやふ》きに過ぎたるなり。附添さへある賓《まらうど》の身にして、賤《いやし》きものに遇《あつか》はるる手代|風情《ふぜい》と、しかもその邸内《やしきうち》の径《こみち》に
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