|敢《あへ》て為にせんとにもあらざるべし。彼は常にその友を択べり。富山が交《まじは》るところは、その地位に於《おい》て、その名声に於て、その家柄に於て、或《あるひ》はその資産に於て、孰《いづれ》の一つか取るべき者ならざれば決して取らざりき。されば彼の友とするところは、それらの一つを以て優に彼以上に価する人士にあらざるは無し。実《げ》に彼は美き友を有《も》てるなり。さりとて彼は未《いま》だ曾《かつ》てその友を利用せし事などあらざれば、こたびも強《あながち》に有福なる華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、かく勉《つと》めて交《まじはり》は求むるならん。故《ゆゑ》に彼はその名簿の中に一箇《いつか》の憂《うれひ》を同《おなじ》うすべき友をだに見出《みいだ》さざるを知れり。抑《そもそ》も友とは楽《たのしみ》を共にせんが為の友にして、若《も》し憂を同うせんとには、別に金銭《マネイ》ありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。彼の美き友を択ぶは固《もと》よりこの理に外ならず、寔《まこと》に彼の択べる友は皆美けれども、尽《ことごと》くこれ酒肉の兄弟《けいてい》たるのみ。知らず、彼はこれを以てその友に満足すとも、なほこれをその妻に於けるも然《しか》りと為《な》すの勇あるか。彼が最愛の妻は、その一人を守るべき夫の目を※[#「※」は「目+毛」、131−14]《かす》めて、陋《いやし》みても猶《なほ》余ある高利貸の手代に片思の涙を灑《そそ》ぐにあらずや。
 宮は傍《かたはら》に人無しと思へば、限知られぬ涙に掻昏《かきく》れて、熱海の浜に打俯《うちふ》したりし悲歎《なげき》の足らざるをここに続《つ》がんとすなるべし。階下《した》より仄《ほのか》に足音の響きければ、やうやう泣顔隠して、わざと頭《かしら》を支へつつ室《しつ》の中央《まなか》なる卓子《テエブル》の周囲《めぐり》を歩みゐたり。やがて静緒の持来《もちきた》りし水に漱《くちそそ》ぎ、懐中薬《かいちゆうくすり》など服して後、心地|復《をさま》りぬとて又窓に倚《よ》りて外方《とのがた》を眺めたりしが、
「ちよいと、那処《あすこ》に、それ、男の方の話をしてお在《いで》の所も御殿の続きなのですか」
「何方《どちら》でございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする」
「お宅は? 御近所なのですか」
「はい、お
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