は謂ふばかり無く、
「あれ、如何《いか》が遊ばしました」
「いえ、なに、私は脳が不良《わるい》ものですから、余《あんま》り物を瞶《みつ》めてをると、どうかすると眩暈《めまひ》がして涙の出ることがあるので」
「お腰をお掛け遊ばしまし、少しお頭《ぐし》をお摩《さす》り申上げませう」
「いえ、かうしてをると、今に直《ぢき》に癒《なほ》ります。憚《はばかり》ですがお冷《ひや》を一つ下さいましな」
 静緒は驀地《ましぐら》に行かんとす。
「あの、貴方《あなた》、誰にも有仰《おつしや》らずにね、心配することは無いのですから、本当に有仰らずに、唯私が嗽《うがひ》をすると言つて、持つて来て下さいましよ」
「はい、畏《かしこま》りました」
 彼の階子《はしご》を下り行くと斉《ひとし》く貴婦人は再び鏡《グラス》を取りて、葉越《はごし》の面影を望みしが、一目見るより漸含《さしぐ》む涙に曇らされて、忽《たちま》ち文色《あいろ》も分かずなりぬ。彼は静無《しどな》く椅子に崩折《くづを》れて、縦《ほしいま》まに泣乱したり。

     (四) の 三

 この貴婦人こそ富山宮子にて、今日夫なる唯継《ただつぐ》と倶《とも》に田鶴見子爵に招れて、男同士のシャンペンなど酌交《くみかは》す間《ま》を、請うて庭内を遊覧せんとて出でしにぞありける。
 子爵と富山との交際は近き頃よりにて、彼等の孰《いづれ》も日本写真会々員たるに因《よ》れり。自《おのづか》ら宮の除物《のけもの》になりて二人の興に入《い》れるは、想ふにその物語なるべし。富山はこの殿と親友たらんことを切望して、ひたすらその意《こころ》を獲《え》んと力《つと》めけるより、子爵も好みて交《まじは》るべき人とも思はざれど、勢ひ疎《うとん》じ難《がた》くして、今は会員中善く識《し》れるものの最《さい》たるなり。爾来《じらい》富山は益《ますま》す傾慕して措《お》かず、家にツィシアンの模写と伝へて所蔵せる古画の鑒定《かんてい》を乞ふを名として、曩《さき》に芝西久保《しばにしのくぼ》なる居宅に請じて疎《おろそか》ならず饗《もてな》す事ありければ、その返《かへし》とて今日は夫婦を招待《しようだい》せるなり。
 会員等は富山が頻《しきり》に子爵に取入るを見て、皆その心を測りかねて、大方は彼為《かれため》にするところあらんなど言ひて陋《いやし》み合へりけれど、その実
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