ど》も無かりければ、偶《たまた》ま唐楪葉《からゆづりは》のいと近きが鏡面《レンズ》に入《い》り来《き》て一面に蔓《はびこ》りぬ。粒々の実も珍く、何の木かとそのまま子細に視たりしに、葉蔭を透きて人顔の見ゆるを、心とも無く眺めけるに、自《おのづ》から得忘れぬ面影に肖《に》たるところあり。
貴婦人は差し向けたる手を緊《しか》と据ゑて、目を拭《ぬぐ》ふ間も忙《せはし》く、なほ心を留めて望みけるに、枝葉《えだは》の遮《さへぎ》りてとかくに思ふままならず。漸《やうや》くその顔の明《あきらか》に見ゆる隙《ひま》を求めけるが、別に相対《さしむか》へる人ありて、髪は黒けれども真額《まつかう》の瑩々《てらてら》禿《は》げたるは、先に挨拶《あいさつ》に出《い》でし家扶の畔柳にて、今一人なるその人こそ、眉濃《まゆこ》く、外眦《まなじり》の昂《あが》れる三十前後の男なりけれ。得忘れぬ面影に肖《に》たりとは未《おろか》や、得忘れぬその面影なりと、ゆくりなくも認めたる貴婦人の鏡《グラス》持てる手は兢々《わなわな》と打顫《うちふる》ひぬ。
行く水に数画《かずか》くよりも儚《はかな》き恋しさと可懐《なつか》しさとの朝夕に、なほ夜昼の別《わかち》も無く、絶えぬ思はその外ならざりし四年《よとせ》の久きを、熱海の月は朧《おぼろ》なりしかど、一期《いちご》の涙に宿りし面影は、なかなか消えもやらで身に添ふ幻を形見にして、又|何日《いつか》は必ずと念懸《おもひか》けつつ、雨にも風にも君が無事を祈りて、心は毫《つゆ》も昔に渝《かは》らねど、君が恨を重ぬる宮はここに在り。思ひに思ふのみにて別れて後の事は知らず、如何《いか》なる労《わづらひ》をやさまでは積みけん、齢《よはひ》よりは面瘁《おもやつれ》して、異《あやし》うも物々しき分別顔《ふんべつかほ》に老いにけるよ。幸薄《さいはひうす》く暮さるるか、着たるものの見好げにもあらで、なほ書生なるべき姿なるは何にか身を寄せらるるならんなど、思は置所無く湧出《わきい》でて、胸も裂けぬべく覚ゆる時、男の何語りてや打笑む顔の鮮《あざやか》に映れば、貴婦人の目よりは涙すずろに玉の糸の如く流れぬ。今は堪《た》へ難くて声も立ちぬべきに、始めて人目あるを暁《さと》りて失《しな》したりと思ひたれど、所為無《せんな》くハンカチイフを緊《きびし》く目に掩《あ》てたり。静緒の驚駭《おどろき》
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