入りつつ貴婦人は笑《ゑ》ましげに聴ゐたり。
「私は急いで推付けましたのでございます」
「まあ!」
「なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付けやうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、御親類方も御在《おいで》でゐらつしやいましたが、皆為《みんななす》つて御覧遊ばしました」
貴婦人は怺《こら》へかねて失笑せり。
「あら、本当なのでございますよ。それで、未だ推付けやうが悪い、もつと早く早くと仰せられるものでございますから、御殿に居ります速水《はやみ》と申す者は余《あんま》り急ぎましたので、耳の此処《ここ》を酷《ひど》く打《ぶ》ちまして、血を出したのでございます」
彼の歓《よろこ》べるを見るより静緒は椅子を持来《もちきた》りて薦《すす》めし後、さて語り続くるやう。
「それで誰《たれ》にも聞えないのでございます。さやう致しますると、殿様は御自身に遊ばして御覧で、なるほど聞えない。どうしたのか知らんなんて、それは、もう実にお真面目《まじめ》なお顔で、わざと御考へあそばして、仏蘭西《フランス》に居た時には能《よ》く聞えたのだが、日本は気候が違ふから、空気の具合が眼鏡の度に合はない、それで聞えないのだらうと仰せられましたのを、皆本当に致して、一年ばかり釣られてをりましたのでございます」
その名器を手にし、その耳にせし人を前にせる貴婦人の興を覚ゆることは、殿の悪作劇《あくさげき》を親く睹《み》たらんにも劣らざりき。
「殿様はお面白《おもしろ》い方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね」
「それでもこの二三年はどうも御気分がお勝《すぐ》れ遊ばしませんので、お険《むづかし》いお顔をしてゐらつしやるのでございます」
書斎に掛けたる半身の画像こそその病根なるべきを知れる貴婦人は、卒《にはか》に空目遣《そらめづかひ》して物の思はしげに、例の底寂《そこさびし》う打湿《うちしめ》りて見えぬ。
やや有りて彼は徐《しづか》に立ち上りけるが、こ回《たび》は更に邇《ちか》きを眺めんとて双眼鏡を取り直してけり。彼方此方《あなたこなた》に差向くる筒の当所《あて
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