み》の念強けれど、妬《ねた》しとは及び難くて、静緒は心に畏《おそ》るるなるべし。
彼は貴婦人の貌《かたち》に耽《ふけ》りて、その※[#「※」は「肄−聿+欠」、126−5]待《もてなし》にとて携へ来つる双眼鏡を参らするをば気着かでゐたり。こは殿の仏蘭西《フランス》より持ち帰られし名器なるを、漸《やうや》く取出《とりいだ》して薦《すす》めたり。形は一握《いちあく》の中に隠るるばかりなれど、能《よ》く遠くを望み得る力はほとほと神助と疑ふべく、筒は乳白色の玉《ぎよく》もて造られ、僅《わづか》に黄金《きん》細工の金具を施したるのみ。
やがて双眼鏡は貴婦人の手に在りて、措《お》くを忘らるるまでに愛《め》でられけるが、目の及ばぬ遠き限は南に北に眺尽《ながめつく》されて、彼はこの鏡《グラス》の凡《ただ》ならず精巧なるに驚ける状《さま》なり。
「那処《あすこ》に遠く些《ほん》の小楊枝《こようじ》ほどの棒が見えませう、あれが旗なので、浅黄《あさぎ》に赤い柳条《しま》の模様まで昭然《はつきり》見えて、さうして旗竿《はたさを》の頭《さき》に鳶《とび》が宿《とま》つてゐるが手に取るやう」
「おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも多度《たんと》御座いませんさうで、招魂社《しようこんしや》のお祭の時などは、狼煙《のろし》の人形が能《よ》く見えるのでございます。私はこれを見まする度《たび》にさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞ宜《よろし》うございませう。余《あんま》り近くに見えますので、音や声なんぞが致すかと想ふやうでございます」
「音が聞えたら、彼方此方《あちこち》の音が一所に成つて粉雑《ごちやごちや》になつて了《しま》ひませう」
かく言ひて斉《ひとし》く笑へり。静緒は客遇《きやくあしらひ》に慣れたれば、可羞《はづか》しげに見えながらも話を求むるには拙《つたな》からざりき。
「私は始めてこれを見せて戴《いただ》きました折、殿様に全然《すつかり》騙《だま》されましたのでございます。鼻の前《さき》に見えるだらうと仰せられますから、さやうにございますと申上げますと、見えたら直《すぐ》にその眼鏡を耳に推付《おつつ》けて見ろ、早くさへ耳に推付《おつつ》ければ、音でも声でも聞えると仰せられますので……」
淀無《よどみな》く語出《かたりい》づる静緒の顔を見
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