目を奪はれつつ一段踏み失《そこ》ねて、凄《すさまじ》き響の中にあなや僵《たふ》れんと為《し》たり。幸《さいはひ》に怪我《けが》は無かりけれど、彼はなかなか己《おのれ》の怪我などより貴客《きかく》を駭《おどろ》かせし狼藉《ろうぜき》をば、得も忍ばれず満面に慚《は》ぢて、
「どうも飛んだ麁相《そそう》を致しまして……」
「いいえ。貴方本当に何処《どこ》もお傷《いた》めなさりはしませんか」
「いいえ。さぞ吃驚《びつくり》遊ばしたでございませう、御免あそばしまして」
 こ度《たび》は薄氷《はくひよう》を蹈《ふ》む想《おもひ》して一段を昇る時、貴婦人はその帯の解けたるを見て、
「些《ちよつ》とお待ちなさい」
 進寄りて結ばんとするを、心着きし静緒は慌《あわ》て驚きて、
「あれ、恐入《おそれい》ります」
「可《よ》うございますよ。さあ、熟《じつ》として」
「あれ、それでは本当に恐入りますから」
 争ひ得ずして竟《つひ》に貴婦人の手を労《わづらは》せし彼の心は、溢《あふ》るるばかり感謝の情を起して、次いではこの優しさを桜の花の薫《かをり》あらんやうにも覚ゆるなり。彼は女四書《じよししよ》の内訓《ないくん》に出でたりとて屡《しばし》ば父に聴さるる「五綵服《ごさいふく》を盛《さかん》にするも、以つて身の華《か》と為すに足らず、貞順道《ていじゆんみち》に率《したが》へば、乃《すなは》ち以つて婦徳を進むべし」の本文《ほんもん》に合《かな》ひて、かくてこそ始めて色に矜《ほこ》らず、その徳に爽《そむ》かずとも謂ふべきなれ。愛《め》でたき人にも遇《あ》へるかなと絶《したたか》に思入りぬ。
 三階に着くより静緒は西北《にしきた》の窓に寄り行きて、効々《かひがひ》しく緑色の帷《とばり》を絞り硝子戸《ガラスど》を繰揚《くりあ》げて、
「どうぞ此方《こちら》へお出《いで》あそばしまして。ここが一番|見晴《みはらし》が宜《よろし》いのでございます」
「まあ、好《よ》い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相|木犀《もくせい》が匂《にほ》ひますね、お邸内《やしきうち》に在りますの?」
 貴婦人はこの秋霽《しゆうせい》の朗《ほがらか》に濶《ひろ》くして心往くばかりなるに、夢など見るらん面色《おももち》して佇《たたず》めり。窓を争ひて射入《さしい》る日影は斜《ななめ》にその姿を照して、襟留《えりどめ》な
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